サッカー日本代表対オマーン戦をスタジアム観戦して

この日曜日、埼玉スタジアムでサッカー日本代表対オマーン戦を観戦してきました。日本代表の試合を観ること自体初めてですし、ましてやワールドカップ予選です。思った以上の迫力で、場を共有することの意味をあら

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ためて考えさせられました。選手が、「スタンドの応援によって勝つことができた」とよく試合後のインタビューで答えますが、お世辞ではなく本当にそうなんだなあと思えるくらい、選手を後押しするエネルギーをひしひしと感じました。

 

試合中継をTVで観るのと、録画しておいて観るのではないが違うか?もちろん再生時点で結果は知らないとして。

 

また、試合をTV観戦するのと、試合会場で観戦するのでは何が違うか?

 

TV中継は、生でなければほとんど価値は感じません。録画であれば、いいプレイをリピートしたり、逆にCMを飛ばしたりでき便利といえば便利です。でもそれとはまったく異なるモノが決定的に欠けてしまう。それは何か。時間を共有している感覚だと思います。それが共感となって、他のどこかにいる多くサッカーファンや選手たちと、つながっている感覚といえます。だからどうだと、説明するのは難しいですが。妻などは後でスポーツニュースを見ればいいじゃん、といいますが、そういうものではないのです。録画では、共感は全く得られません。

 

試合会場での観戦となると、さらに時間だけでなく場所も共有され、共感のレベルが急激にアップします。そして、「場」の力を痛感します。大きなものの一部になっている感覚といえるでしょうか。その場の中では、膨大なつながりのネットワークの中で自分の感覚が解放され、根拠のない力を持った気分になります。ここで自分が念ずことでゴールが生まれるのだ、という確信。もちろん実現することはほとんどないのですが、そんなことはどうでもいい。合理的思考とは全く異なる思考がはたらきます。

 

幸いゲームは日本代表の圧勝、スタジアムの高揚感はなんとも心地いいものでした。もし負けゲームだったら、どんな気分が覆ってしまうのか、ちょっと不安がになってしまったくらい。

 

ゲーム終了直前、私たちのような軟弱なファンは、早めに会場を出て駅に急ぎます。駅まで1.5Kmくらいあるのですが、勝ちゲームの高揚感もあったからか、皆小走りで駅に向かいます。体も軽かったのです。

 

満員電車のような社内では、勝った勢いで大騒ぎするようなファンはいません。ちょっと意外だったのですが、皆行儀正しいのです。日本代表のユニフォームを着用し一人で来ているおじさんファンも珍しくありませんが、そうひとは何事もなかったように、難しそうな専門書を読みふけっていたりします。巨人戦が終わった直後の総武線社内と、随分雰囲気が違います。スタジアムという場を離れれば、それまで満ち満ちていた共感はすっかり影をひそめて、またひとりひとりに戻ったかのようです。私のような軟弱なファンが集まる時間帯の電車だということもあるかと思いますが、ちょっと不思議な体験でした。

 

 

音楽の世界でも、CDや配信の売れ行きは伸びなくても、時間と場所を共有するライブの動員力は高まっていると聞きます。デジタル化により情報が増えれば増えるほど、相対的に入手困難なアナログ情報(その一つが場の力)の価値が高まっていくことでしょう。音楽やスポーツに限らず、あらゆる世界においていえることだと思います。

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このページは、福澤が2012年6月 7日 11:16に書いたブログ記事です。

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