「考える」べきか「考えざる」べきか

日本人は論理思考力が低いと言われます。それはなぜなんでしょうか。

 

論理思考の代表的なもののひとつに因果関係を読み解く力があります。ある現象を結果とみて、その原因は何かを推測することです。因果関係を把握できれば、原因に何らかの手を加えることで、結果を好ましいものに変えることができます。この考え方には、二つの前提がありそうです。

 

ひとつは、人間は現象を管理(コントロール)できるということ。もう一つは、自分以外の他者は、自分に対してダメージを与えるかもしれないので、先手を打つ必要があるということ。

 

でも、それでは社会が殺伐としそうです。人々がばらばらになってしまいそうです。論理思考を重視する欧米では、上記前提を認めたうえで、唯一神への信仰を共有することで結合を図ったり、あるいは契約を結ぶことで安心を得るという社会的仕掛けができていると思われます。

 

一方、農耕社会であった日本では、共同体意識が強く、疑うことは好ましいものではなかったことでしょう。また、自然を畏怖していたため、コントロールできるという考えは育たなかった。従って、先のふたつの前提を認めてこなかったわけで、そこに論理思考の入り込む余地は小さかったのだと思います。当然神も契約も力を持たず、あるのは非合理な「世間」や「空気」。


仏教の世界では、「考える」こととは邪推することと同義であり、好ましいことではにないと聞いたことがあります。「小人閑居して不善をなす」という言葉があります。小さい人間は暇を持て余すと、とかく悪事に走るという意味でしょうが、私は、「(普通の人間は」考える余裕があると、どんどん悪い方に考えてしまい、その結果自他ともに好ましくない行いをしてしまう」と解釈しています。そう、考え過ぎてもろくなことはない。これは現在の日本においても通用する考え方だと、体験からもそう思います。

 

 

そう考えると、日本人が論理思考が苦手なのは当然でしょう。しかし、日本人と異なる背景を持った人々と関わっていくには、そうも言っておられません。それが現在です。でも日本社会のつくりが変わっていない以上、国内で論理思考を振りかざすことは危険でもあります。求められてはいるが、それを中心に考えても難しい。

 


「考える」べきか「考えざる」べきか、現代のわれわれ日本人はこうした矛盾の中で生きていかなければならいのです。でもそもそも日本人が考える人生とは、そういう複雑で矛盾に満ちたものなんでしょう。

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このページは、福澤が2012年5月16日 17:58に書いたブログ記事です。

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