数字データは危うい

原発の安全神話を支えてきたのは、科学技術であることは論を待ちませんが、人々にそれを信じさせてきたものは、安全性を表現するために使用された多くの「数字データ」だったのではないでしょうか。「こういうデータが出ているので、大丈夫ですよ」と。難しい科学技術の概念的理論をどれだけ詳しく説明されたところで、大多数の人々は理解できません。しかし、数字で示されると何となく安心するのです。その数字の根拠だとか意味合いとかは。ほとんど理解できません。ただ、数字で示されることでなんとなく「正しい」と感じてしまうのです。それをうまく利用してきたのが電力会社であり政府なのかもしれません。

 

これほど一般に数字データには「弱い」。馬鹿げていると思われるかもしれませんが、そんなことがそこここで起きています。例えば、これまでと全く異なる新しい研修の導入を検討しているとしましょう。担当者は変えることが「正しい」と確信しているのですが、上司を説得せねばなりません。上司はこう言います。「君の熱意はわかるが、本当にこれまでの研修より新しいもののほうが良いことをデータで証明してくれ。そうじゃなければ私は上を説得できないよ」

 

これはしばしば起こることです。上司が期待するのは、好ましいことを示す「データ」であり、決して「好ましさ(という事実)」ではないのです。

 

 

研修効果を測定してほしいという要望もあります。それは、その研修を実施したという自己の判断を正当化する「データ」が欲しいということに他なりません。もちろん、すべての経営判断はきちんと評価されるべきです。できれば定量的に。しかし、できることとできないことがあります。こと研修については、定量評価への期待が大きいと感じています。それは、測りやすいと思われているからなのか、経営へのインパクトが大きいため緻密な評価を必要とされているからなのか。残念ながらどちらもNoです。満足度の評価は容易ですが、効果の評価には膨大な時間とコストがかかります。費用対効果は見合わないでしょう。経営へのインパクト?、それもたとえば人事制度変更や組織改革などと比べれば、必ずしも大きくはない。ましてや制度や組織変更の効果測定を定量的に行ったなどという話は聞いたことがありません。結局定量データを欲しがるのは、企業組織における「権限」、「信頼度」、「政治的影響力」が比較的弱い組織の「生きる知恵」みたいなものかもしれません。

 

残念ながら、欲しいのは真実ではなく説得材料。原発推進派は強大な権力は持っていますが、こと民主主義のもとでは住民の説得という大変高いハードルに直面します。やはりそこでは、真実よりも説得材料が必要なのです。東電でデータ捏造が数年前問題になりましたが、「原発を推進すべき」という彼らにとっての「真実」、あるいは「正義」を前にして、データ捏造は「説得」のための必要悪だったのだと思います。


もちろんいい仕事をするために、多少腕力(データの巧妙なトリックも含めて)を使って説得し、意見を通すことが必要なときもあります。しかし、えてして「真実」や「正義」のためのつもりが「保身」のためにすり替わってしまいがちなのです。その差は紙一重かもしれません。

 

このように、数字データは非常に危ういものなのです。それをわきまえて付き合わなければなりません。

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このページは、福澤が2011年4月26日 16:56に書いたブログ記事です。

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