水村 美苗

長らく積ん読だった「日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で」(水村美菜苗著)をやっと読みました。評判どおり、今の時代に必要な洞察に満ちた素晴らしい本でした。
今の時代は、楽天やファーストリテイリングの英語社内公用語化に代表されるように、「英語ができなければ(まとな)人でなし」と思われる時代です。かつて何度もそれはあったことでしょうが、ネットの普及と経済のグローバル化、そして日本経済の縮小が、今度こそと迫っているようです。
言語には三つの意味があると考えます。一つはコミュニケーションツールとしての役割、二つ目は思考ツールとしての役割、そして最後は文化の源としての役割です。
塩野七生は、「最近笑えた話」というエッセーの中で先の2社の例をあげ、日本人の思考によるアイデアが消え去る日が来るであろうことを指摘しています。極端な指摘だと思いますが、日本語の思考ツールと文化の源の役割に着目しているのだと思います。
水村の本著では、普遍言語としての英語は既に決定的地位を占めており、コミュニケーションツールとしての英語の役割はますます高まるとしています。だからこそ、思考や文化の源としての日本語を守れ!と強調しているのです。
そもそも学校の国語では、何を教えているのでしょうか?漢字の習得以外にほとんど記憶にありません。学校で教える国語とは、文字通り「読み書き」ではないでしょうか。それは大人になるために不可欠なことです。では、古文や漢文は?少なくとも私は、国語の授業を受けて、読み書き以外の価値を感じていなかったように思います(先生、すみません)。
それは、言語のコミュニケーションツールとしての意味しか見えていなかったからではないでしょうか。水村が指摘しているように、日本語は非常にユニークな言語です。しかも、江戸や明治の先人の苦労のおかげで、高いレベルの思考に適用できるまでに成熟しています。しかも、韓国やベトナムなどが放棄した漢字と、ひらがなやカタカナという独自の文字を使いわけることまでした。(戦後文部省は、漢字を廃止しひらがなやローマ字のみで表記させることを真剣に検討していたそうです!?)
水村は、「表記法を使い分けるのが意味の生産にかかわる」と言い、その例として萩原朔太郎の詩をあげています。
ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
「ふらんす」を「仏蘭西」と変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよとした頼りなげな詩情が消えてしまい、また「フランス」に変えると当たり前の心情を当たり前に訴えているだけになってしまうと言います。また、もしこの詩を口語体に変えるとJRの広告以下だと断定します。全く賛成です。これほど日本語は豊潤な言葉であり、ここに文化の源の意味が垣間見えてきます。しかしこのままでは、この使い分けの効果の違いを認識できない日本人が、これから増えてくるかもしれないのです。
私はコミュニケーションツールとしての英語の役割に加え、思考ツールとしての英語(例えば、英語で考えることにより確実に論理性は高まります)も、ことビジネスの世界では必須になりつつあると考えます。一方、グローバル化が進めば進むほど、思考ツールや文化の源としての日本語の重要性が高まってくるでしょう。(塩野はそれを指摘したかったのでしょう)そういう意味で、二重言語者にならなければならないのです。
最近の風潮はコミュニケーションツールとしての英語にだけ注目が浴びており、なにか割り切れなさを感じていました。もっと、日本語を大事にすること、それは絶滅危惧種だからではなく競争力の源泉なのだから、と認識したいものです。まずは夏目漱石を読むことからはじめよう。
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