神話

原発の安全神話が、今問われています。日本人はなぜか多くの「神話」を持つ国民です。そこで、神話について考えてみたいと思います。

 

私にとっての最初の神話への疑問は、駆け出しのコンサルタンント時代です。ある不動産が絡むプロジェクトを担当していました。その中で、今後の地価の推移が重要なイシューとなっており、バブル最盛期の当時、誰もが安定的伸びを前提にしていました。議論は今のように毎年10%以上で伸びるか、それとも5%程度かといった、伸び率の大小でした。

 

非常に合理的で賢い人たちで、このような議論をしていることに少し違和感を覚えました。というのは、その2,3年前まで銀行で不動産担保融資を担当していたからです。新卒で何も知識がない私にとって、そこまで地価が上昇することを前提に融資していいものだろうか、との素朴な疑問が湧いたのです。今思えば、あまりに無知だったので「土地神話」なんて知らなかったわけです。

 

地価上昇を信じたい銀行員にとっては、土地神話はありがたいものでしたが、そういう立場ではないコンサルタントも同じような土地神話を信じていることに驚いたのです。

 

さて、なぜ神話は生まれ信じられるのでしょうか?一つには願望です。多くの人々が「そうあってほしい」を思えば、その概念が「共同幻想」となって一人歩きを始めます。二つめは、「空気」の醸成です。つくられた共同幻想が、もはや特別の存在ではなく、空気となって人々の頭を覆い尽くすのです。三つめは、「大数への信頼」、つまり「多くの人がそう考えているのだから、そうに違いない(偉い人もそう言っているし)」という心理です。四つめは、「言霊信仰」。ご存知の通り、日本人は古来「ことば」を発してしまうと、それが実現すると信じてきました。今の時代にばかばかしいと思うかもしれませんが、今でも心の奥には間違いなく存在しています。

 

原発の安全神話が好例です。経産省も電力会社もずっと安全だと言い続けてきました。もちろん少しでも安全になるように、あらゆる努力を続けてきたことでしょう。しかし、万が一事故が起こり放射線がまき散らされたとき、どのような対応をすべきかのシナリオは存在しなかったようです。食物の放射線に対する安全基準がなく、事故発生後数週間たってあわてて暫定基準なるものを設定することがその証拠です。なぜ、そんな当たり前の準備をしていなかったのでしょうか。私は言霊信仰を感じます。絶対安全なんだから、放射線拡散なんて考える必要がない。もしそんなことを口に出して考えてしまったら、本当に起きてしまうじゃないか。そんな心理が原発を推進する側に働いたのではないでしょうか。多くの人々が、そういう言霊に縛られ「空気」にさらされたら、それに抵抗することは並大抵のことではありません。それに対抗しうるのは、冷徹なロジックであり、その集大成である科学のはずです。しかし、そうはなっていない。一見科学的ですが、本質は非常に情緒に流されていた。そこには、政治や利権、名誉などあらゆる非科学的な欲望が関わっていたのかもしれません。科学の粋を集めた原発の事故、なんて皮肉なものでしょうか。

 

だからと言って、大震災からの復興を考えるに、合理性や科学だけで解決できるわけもありません。それに加え、素朴な人の心や直感、過去からの慣習や歴史など、あらゆる人間の知恵を総動員しなければなりません。そこには、日本人だけでなく、海外からの多くの知恵も加えるべきでしょう。そういう姿勢を期待したいものです。

 

 

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渋谷駅コンコースに、岡本太郎作『明日の神話』が異様な存在感を持って設置されています。この作品は原爆の恐怖を描いたものですが、なぜ「明日」の「神話」なのでしょう。神話はただ過去のものではなく、未来に語り継がれるものだとの意味なのではないでしょうか。そしてもうひとつ。ここから新しい神話が創造される、その出発点だとの思い。岡本敏子さんはこう書いています。

 

だがこれはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、
酷い、被害者の絵ではない。
燃えあがる骸骨の、何という美しさ、高貴さ。
巨大画面を圧してひろがる炎の舞の、優美とさえ言いたくなる鮮烈な赤。
にょきにょき増殖してゆくきのこ雲も、
末端の方は生まれたばかりの赤ちゃんだから、無邪気な顔で、
びっくりしたように下界を見つめている。
外に向かって激しく放射する構図。強烈な原色。
画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。
あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、
それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる。
タイトル『明日の神話』は象徴的だ。
その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまき散らしたのではない。
残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間、
誇らかに『明日の神話』が生まれるのだ。
岡本太郎はそう信じた。この絵は彼の痛切なメッセージだ。
絵でなければ表現できない、伝えられない、純一・透明な叫びだ。
この純粋さ。リリカルと言いたいほど切々と激しい。
二十一世紀は行方の見えない不安定な時代だ。
テロ、報復、果てしない殺戮、核拡散、ウィルスは不気味にひろがり、
地球は回復不能な破滅の道につき進んでいるように見える。
こういう時代に、この絵が発するメッセージは強く、鋭い。
負けないぞ。絵全体が高らかに哄笑し、誇り高く炸裂している。

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このページは、福澤が2011年4月19日 11:25に書いたブログ記事です。

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