ドラマのないドラマが力を持つ:映画「シルビアのいる街で」を観て

初めて訪れた街で、何の目的もなしにうろつくことは、特別な楽しみがあるように思います。何が現れるかという好奇心と少しだけの不安、すれ違う人は誰も自分を知らないというわずかばかりの安心感、それが入り混じった不思議な「楽しみ」(「楽しさ」ではなく)を感じるのです。

 

それを映画で体験できるとは思えませんでした。この 「シルビアのいる街で」は、ストーリーはほとんどありません。それどころか、セリフも数えるほどしかないのです。主役は、ドイツに近いフランスの古都ストラスブーグの街、人々、いや音で

sirubia.jpg

す。私には街の雑踏で耳に入っている意味のない普通の音が最も気になりました。石畳を早足で歩く「カツ、カツ」という音、瓶が転がる音、ラジオをかき鳴らした自動車が近づき通り過ぎる音、カフェでの人々の会話、流しのバイオリンなど、音を拾うために映像も撮ったと言わんばかりです。

 

最初は、シルビアと街でいろいろな出来事が起こるラブロマンスなのかと勝手に想像していましたが、全く違います。大事なのは「シルビア」ではなく、「街」しかもそこでの「音」だったのです。

 

街にいる普通の人々も不思議と魅力的に見えます。映像に現れてくるすべての人々にも、小さな(決して大事件などではない)物語がきっとある、なんとなくそう思わせます。しかし、映画は何も語りませんし起こりません。一見主役である青年とシルビアと間違われる女性についても、ほとんど何も語られないのですから。

 

でも、なんとなく心地よいのです。どこかで味わった感覚だとひっかかっていましたが、気づきました。小津安二郎です。小津の映画も、なんてことない家族の話で、娘がやっと結婚しましたというストーリーだけなのですが、でも何か味わい深い、その感覚に似ているのです。


ドラマのないドラマが力を持つ、小さな宝石のような作品です。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: ドラマのないドラマが力を持つ:映画「シルビアのいる街で」を観て

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.adat-inc.com/cgi-bin/mt-tb.cgi/389

コメントする

このブログ記事について

このページは、福澤が2010年11月 2日 10:41に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「アボリジニと日本の農政」です。

次のブログ記事は「講演の難しさ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1