部下を叱れない上司や、隣にいてもメールで報告する部下の話を耳にする一方で、社内運動会や社内旅行、上司の自宅でのホームパーティに嬉々として参加する若手の話も聞きます。企業組織内のコミュニティの力はどうなってきているのでしょうか?
企業における組織の問題を考えていると、結局日本社会の問題に行きついてしまいます。つまり、日本社会におけるコミュニティの問題と、日本企業における組織の問題は、相似形にあり、どちらも大きな変革期を迎えていると言えそうなのです。広井良典千葉大教授のコミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
を読んで、そう感じました。
日本社会は「農村型コミュニティ」であり、共同体的一体意識でつながっていると言われます。戦後、人口が農村から大量に都市に流入したのですが、都市(主に東京)に、「カイシャ」というもう一つの農村型コミュニティを成立させた。そして、儒教的価値観を否定し、「経済成長」という新たな価値原理で人々はまとまり、社会全体が一心不乱に成長を追い求めてきたわけです。しかし、前提となる経済成長は、もうほとんど望めません。その結果、社会的孤立が高まっているそうです。
企業組織も、同じような問題を抱えています。農村型コミュニティでは、企業は立ちいかなくなっています。まず外部からは、否応なくグローバル化に対応するには多様化を受け入れざるをえません。また内部では、終身雇用や年功序列が崩れる中で、たぶんに情緒的な長期安定的な組織運営は難しくなります。つまり、農村型コミュニティが維持できなくなりつつあるのです。そこに来て、すべてを癒してくれた「成長」も見込めない。
そんな中で、成果主義やグローバルスタンダードのかけ声のもと、社会の中でも企業の中でも格差が広がっています。日本経済すなわち企業の成長イコール個人の豊かさであった時代はすでに幕を閉じ、個人の豊かさがそれらと分断されてしまったのです。「会社の成長のために、一丸となってガンバロー!」は、もはや社員の心を動かさない。こうなると、企業は「企業成長」に替わる新たな価値原理を、社員に提示しなければならないでしょう。
たまたま今朝の日経の清華大学国情研究センターの胡主任のインタビュー記事に、こんな言葉がありました。
(中国は)貧富の格差は広がっており、これを解消する方法はなかなか見つからない。ただ、中国では経済のパイが膨らむ中で格差が拡大している。貧しい人たちも教育を受けて一生懸命に仕事をすれば、いつかより良い生活をおくれると信じている。一方、日本の格差拡大は収入が増えない中で起きている。悪性の格差拡大であり、解決方法がないように見える。
中国が今後も高成長の中で格差拡大を抑えることができるかどうかは、はなはだ疑問ですが、日本についてはその通りでしょう。(ちなみに、日本の高度成長は、成長と格差縮小を両立させた世界でも稀に見る快挙だった!)
では、「都市型コミュニティ」に、日本社会も企業も移行すべきなのでしょうか。それは可能なのでしょうか。都市型コミュニティとは、独立した個人としてつながるコミュニティーのことです。農村型が情緒でつながるのに対して、都市型では規範でつながる。欧米が都市型コミュニティを築いているのは、歴史的経緯もありますが、やはりキリスト教という強い規範があり、「神」を経由して自律した個人同士人がつながることができるからなのです。そのような規範のない日本は、どうすればいいのでしょうか。「空気」が規範になるのだけは避けなければなりません。
自律した個人のつながりとなるか、孤立した個人の「空気」によるまとまりとなるのか。社会の変化に敏感な若手社員は、社会的孤立から逃れるために、「カイシャ」でのつながりを求めているのかもしれません。学生の大企業志向回帰も、単に不況のためだけではない気がします。求める「つながり」が、都市型コミュニティでのそれとは異なる携帯での頻繁なメール交換に近いものでなければいいのですが・・・。
いずれにしろ、日本社会も企業組織も、あらたな「つながり」の形を創造する時期に来ているい気がします。
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