人は「つながり」を求める:御柱祭を観て

この週末は信州諏訪の隣町に滞在し、地元ケーブル局による御柱祭の生中継を堪能していました。(朝8時ごろから夜7時ごろまで生中継。終了後、即座にすべてを再放送!)御柱祭とは、諏訪大社の4つの宮それぞれに建つ各4本の御柱(ご神木)を、申年と寅年に建て替える祭礼です。計16本の御柱を、山の上からそれぞれのお宮まで曳いていく役目は、町(集落)ごとに割り振られます。

 

六年ごとに巡ってくるお祭りですが、かつて祭礼の年には、祭り準備に資金を振り向けるため家の普請や婚礼が禁止されていたほど、気合いのはいったお祭なのです。住民総出といっても言い過ぎではないでしょう。

 

そのハイライトは、10トンを超えるような御柱を急斜面から引き落とす、「木落し」です。御柱の上には数人の氏子がまたがり、御柱もろとも   250px-ONBASHIRA.jpg滑走するのです。一歩間違えれば、巨木の下敷きになります。非常に危険なスリルに満ちた光景が展開します。それがこの週末に行われました。

 

多くの行動の合図は木遣りです。木遣りが、エネルギーを与え、またタイミング指示の役割をはたしています。TVでではありましたが、こちらにまで御柱を曳く氏子らの思いや一体感まで感じられたほどです。

 

 

命懸けの祭礼に、なぜ地域の人々はここまで燃えるのでしょうか?損得でないことだけは確かです。そこに「つながり」を実感できるからではないでしょうか。家族との、地域の人々との、諏訪の神様との、聖なる山との、そして町の歴史とのつながりです。

 

人は、本能的に「つながり」を求めています。ほんの数十年前までは「つながり」がなければ、物理的にも生きていけなかった。「つながり」の装置としてのお祭りが、地方には多数保存されています。

 

しかし、社会が便利(あるいは物質的に豊か)になり、「つながり」が「わずらわしさ」に感じられるようになった。そして、「つながり」と便利さがトレードオフとなり、便利さを選んだ。これは、それほど昔のことではありません。私が社会人になった頃は、相部屋の社員寮は普通でしたが、その後個室が当たり前に急速に変わりました。

 

このままいくのかと思いきや、また時代はひと回りしだしているようです。一時は絶滅に向かうかと思われた社員寮が、最近また増えだしたそうです。社内旅行や社員運動会もしかり。若い世代を中心に「つながり」を「便利さ」よりも重視する傾向が見られるようなのです。各地のお祭りも人気です。

 

 

この傾向をどう見るべきなのでしょうか?人間が本来持つ「つながり」の再評価は良いことでしょう。しかし、本来は「自律した個人」による「つながり」を目指すべきだったのに、依然「あいまいな私」による「つながり」だとしたら、単なる先祖返りではないでしょうか。会社につながりを求めるのも、昔と同じなのでしょうか。

 

SNSもツイッターも「つながり」を促す仕組みといわれていますが、その「つながり」は御柱祭に見られたような「つながり」と本質的に同じものなのでしょうか。もし、異なるものだとすれば、どのように質的に変わったのでしょうか?

 

古代から続く御柱祭の興奮を味わいながら、そんなことを考えてしましました。

 

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このページは、福澤が2010年4月12日 15:19に書いたブログ記事です。

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