昨晩、よくいく日帰り温泉での出来事です。サウナに一人で入っていると、突然小学校低学年くらいの男の子が入ってきて、隣に座って話しかけてきました。
「ねえ、マンモスがいたくらいの地球の始めのころで、どんな生き物が好き?」
「そうだね、恐竜かな。」
「どの恐竜が好き?」
まんまと彼の恐竜談義に誘導されてしまいました。サウナが暑くなったのでしょう。
「まだ、出ないの? じゃあ、ドアの外で待っているね」
その後、露天風呂でも彼の豊富な恐竜の知識を拝聴することができました。
小学生低学年くらいまでは、彼のように自分と他人との間の壁はあまりないでしょう。でも、社会化するということは、ある意味その壁を作ることです。中学年くらいから、自意識も芽生え、日本人の大人になるための、ウチとソトの境界を体得していきます。最近、小学校の男子トイレで、大きいほうの用をたすことができない子供が増えており、男子トイレもすべて個室に改装する学校が出てきたとの記事を読みました。日本における社会化の行き過ぎた現象かもしれません。(ソトである学校で、ウチですべき大はできない!?)
ウチとソトの境界は、もちろん重要です。一方で、いずれ境界を下げることも学ばなければ、適切なコミュニケーションははかれません。では、それはいつ頃起きるのでしょうか。かつては、大人として社会で生きていくと認められる時期、つまり元服がその印だったのでしょう。現代で言えば、成人式?いや、きっと社会人として独り立ちした時に相当するのでしょう。
しかし、自分のことを考えても、新社会人になった頃は、まだまだ境界が残っていた気がします。境界をある程度コントロールできるようになったのは、思い返せば、社会人としての自分の貢献が、第三者(社内の人間ではなく、お客さんや取引先など)のヨソの人に認めてもらったときのような気がします。(小学校中学年頃から、随分長い時間がかかったものです)
便利な時代になればなるほど、そのタイミングは遅くなっていくのかもしれません。価値観やスタイルは、世代でどんどん変わっていますが、ウチとソトの境界のような、日本人の根底に横たわった思考の枠組みは、案外変わらず、ただ、時期や現われ方に変化があるだけなのかもしれません。
ウチとソトは、自分自身から始まって家やムラから国家、文化圏などまでが入れ子状態になっています。グローバルな環境でもまれる昨今、あらためてウチとソトという思考枠組みについて、考えてみる必要があるように思います。
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