内田樹さんの「日本辺境論」に、こんな記述がありました。
弟子はどんな師に就いても、そこから学びを起動させることができる。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する。(「日本辺境論」P149)

内田さんは、辺境人たる日本人は、こうして「中心」から学ぶための、素晴らしく効率のいい学びの技術を修得したのだと指摘しています。
また、世阿弥は「風姿花伝」にこう書いています。
上手は下手の手本、下手は上手の手本なり
上手が下手の手本は当たり前ですが、下手も上手の手本になると言っているわけです。上手にも悪いところがあり、下手にもよいところが必ずあるもので、自分の技能がある程度のレベルに達したら、「下手のよき所を取りて、上手の物数に入るる(芸の一つに加える)こと」が肝要だとも説いています。つまり、すべてが師になり得ると。
いっぽう、比較の心が芽生え、自分が偉いと思ってしまう(慢心)と、学びが起動しなくなってしまいます。それを、世阿弥は、以下の言葉で指摘します。
稽古は強かれ諍識(じょうしき)はなかれ
諍識とは、慢心から生じる争う心のことです。他者を自分と比較して、劣ると見下すことです。そういう心を一切排除して、稽古に励めと説いているのです。稽古とは、古(いにしえ)をかんがえることだそうで、古来の型をひたすら真似ることです。そこに、比較対象はありません。世阿弥は、日本人の学びの大先生です。

ところ、最近の職場で、「若手が学ばない」と嘆く声をよく耳にします。あるいは、上司の育成力が落ちているとも。
もし、以前は職場での学びが機能していたとすると、何が変わったのでしょうか。暗黙のうちに伝授されてきた、学びの作法が、現在職場で失われつつあるのかもしれません。
「上司は、若手に対して、なぜそれを学ばなければならないかを、合理的に説明しなければならない」、「最近の若手は、理屈で納得しなければ動かない」
といったフレーズもよく耳にします。確かにそういう側面はあるのでしょう。「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いが、話題になるような時代です。
しかし、そういう風潮が、日本人の強みであった学びの力を落としているのかもしれません。理屈はともかく、まず稽古(型を真似る)することで、学びを起動させるアプローチに立ち返ることが必要なのではないでしょうか。一見非効率に見えて、実はそれが最も効率的だという気がします。
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