解釈の余地:能「鉢木」を観て

先日、能楽「鉢木」を金春流で観ました。このお話は有名なのでご存知の方も多いと思いますが、簡単にあらすじを書きます。

 

大雪の中、僧(北条時頼)に一夜の宿を貸した佐野常世は、秘蔵の三つの鉢木を燃して暖をとりもてなし、鎌倉への忠誠心を語る。後日、鎌倉から挙兵の知らせがあり、常世が鎌倉にかけつけると北条時頼は常世を呼び出し、身分を明かし鉢木の礼にと、三つの庄を与えるという能。(以下のデッサンは能を愛した洋画家、須田国太郎によるものです。S25.11.28上演)

  鉢2.jpg 

子供のころから話は知っていましたが、能で観たのは初めてです。実際に観てみると、感じ方というか解釈が異なりました。

 

常世は、純粋に僧のために鉢の木を燃やしたと思っていましたが、単にそうではなかったようです。過去の栄光の最後の思い出を燃やすことにより、鎌倉幕府のために残している鎧、薙刀、痩せこけた馬への想いを強化させる意味があるのではと感じたのです。鉢を燃やすことで、生きる支えは過去の栄光ではなく、これからの幕府への働きのみに限定させるということです。僧へのもてなしは、そのきっかけにしか過ぎない。感謝したのは、僧よりも常世のほうだったかもしれません。

 

もうひとつ。時頼は軍勢の中から常世を捜し出し、褒美を授けたわけですが、常世の喜びを描いたと思っていましたが、今回が異なる感じを受けました。

本当に喜んだのは、時頼だったのではないか。時頼は、大雪の晩からずっと、常世に返礼をすることを思い描いていたと思います。もちろん、部下に探させ返礼することはわけないことです。そうではなく、常世の本願、すなわち鎌倉幕府のために馳せ参じる機会を提供し、その本望を遂げさせた上で返礼する必要があったのでしょう。それが、最大の感謝の示し方です。それが実現できた時頼こそ、もっとも喜んだのではないでしょうか。相手に喜んでもらう喜び。

 

 

さらに、大勢の前で忠義厚い常世に返礼することにより、武士の価値観を浸透させる場としたいとの意図もあったかもしれません。また、法の裁きの厳正さを世間に広めるため、いい加減な裁きで没落した常世の境遇を利用したとも解釈できます。

以上は私の勝手な解釈ですが、表明上とは逆の意図を想像させる余地があるのが、表現をそぎ落とした能の面白さだと思います。頭の中で、いろいろ考えさせることで、しみ込んでいくわけです。大したものですね。

 

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このページは、福澤が2009年12月21日 18:53に書いたブログ記事です。

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