アリバイとしての研修

一昨日の総選挙の際、21歳の女性が子供と間違われ、投票を拒否されたという事件が平塚市であったそうです。市職員は間違いが判明しても謝罪もせず、「戻らないと棄権になる」と促したが、女性は怒って立ち去ったとのこと。

 

これに対して、担当の選挙事務局長は、

「市民の最高の権利行使なのに申し訳ない。間違いをした時に謝罪をするのは最低限のマナーで、今後、こうしたことが二度と起こらないよう職員の研修をする」と話したそうです。

謝罪.jpg 

 

おかしな出来事ですが、今回のように職員(社員)に重大なミスが発生すると、右の写真(本件とは無関係です)のように謝罪した上で、決まって二度と起きないように「研修を(強化)する」ということになります。(なぜか、経営幹部の重大なミスでは、研修とはなりませんが)

 

また、コンプラが強化されたり、セクハラ/パワハラが話題に上ると、やはり「研修強化だ」ということになります。

 

もちろん、研修自体は必要に違いありませんが、どれだけ気持ちを入れて企画・実施しているか、甚だ疑問のことがあります。つまり、やったという事実が重要の、アリバイ研修が多いのではないでしょうか。

 

また、そういったニーズに対応するベンダーも数多くあります。持ちつ持たれつです。

 

こういうアリバイ研修が、社員の研修に対する見方を決定してしまうことがあります。すなわち、「研修は参加することに意義がある」「息抜きみたいなものだ」といったふうです。

 

攻めの研修と、守りの研修があるのは事実です。守りの研修とは、「絶対XXXはしてはいけない。また、YYYの場合は、必ずZZZとしなければならない。」というルールを躾けるものです。自動車免許の書き換え時に受ける講習が、その典型です。

 

しかし、守りの研修も、本当に躾を徹底させないと、失敗した時のダメージが、かつての数百倍、数千倍にも膨らんできています。従って、守りの研修の効果を徹底的に追求することが、経営上非常に高い優先順位となってきているのです。

 

このような時代にもかかわらず、従来型のアリバイ研修でお茶を濁そうとする企業や団体は、存続自体が危うくなることでしょう。

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このページは、福澤が2009年9月 1日 16:26に書いたブログ記事です。

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