昨日、国立劇場の5月文楽公演(第一部)を観てきました。ことしは、大阪の国立文楽劇場開場25周年ということで、その記念公演となっています。
お祝いということで、最初に「寿式三番叟」が演じられました。この出し物は、能の「翁」を文楽に解釈しなおしたものです。
翁は、能の多くの演目な中でも別格で、演目というよりも呪術的な儀式の色が濃いものです。初めて観たときは、厳かで日本古来の信仰に根ざしたものと感じました。
それが大阪の大衆芸能である文楽で演じられるので、どうなるのか楽しみでした。前半は能の雰囲気を残した厳かな語りと舞いでしたが、終盤は文楽特有のおちゃらけ(ちゃり場)も入り、笑いを取って終わるという、らしいものに解釈されていました。さすが、文楽です。
また、三番目の演目は、「日高川入相花王」でした。これも、能の「道成寺」をモチーフに大幅に創作を加えたものです。もちろん歌舞伎でも「娘道成寺」は人気の演目です。
能から文楽に、文楽から歌舞伎にと、ある演目がそれぞれ創作を加えながら引き継がれるということは、珍しいものではありません。珍しいよりも、多いと言ってもいいでしょう。
考えてみれば不思議な現象です。そもそも、能の後に文楽が生まれ、また歌舞伎が生まれたわけですが、決して能が滅んで文楽や歌舞伎に入れ替わったわけではもちろんありません。同じ系譜にありながら、決して進化したわけではなく、枝分かれしたにすぎません。新が旧を滅ぼすのではなく、共存する存在として多様化していく。
これは、芸能だけでなく文学もそうですね。和歌や俳句や現代詩なども併存しています。時代を経るに従って、どんどんバリエーションが増えていく。でも、なんとなく一貫性はあるわけです。
中国の王朝は、勃興と滅亡の歴史です。対して日本は、政府はいろいろ勃興しますが、天皇を中心とした日本という国の概念は、何となく続いてきています。
日本企業のM&Aも、欧米企業のように資本の論理により、買収企業が被買収企業をあからさまに征服するような形態はまれだと思います。また、そうしてもうまくはいかない。
このように考えてみると、日本というのはつくづく特殊な国だと思いますね。何となく吸収し、何となく咀嚼し、何となく続いていく。そういうゆるい生き方(行き方)は、市場経済にはなじまないとして、ここ20年くらい否定され続けてきましたが、世界同時不況の今日、見直されてしかるべきと思います。
でも、何となく適応しながら生き残っていく、その原動力は何なのでしょうか?
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