「分けない」学び

謡をここ二年ほど習っています。昨晩も稽古がありました。帰り道、稽古仲間(といっても随分年長の方です)がこう言われました。

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「英語を習うにも、まず文法を勉強しますよね。謡にもいくつかのルールがあるわけだから、ただ謡うだけでなく、本に書いてある記号の意味から入ればいいと思うのに、何でですかねえ?」

 

私も、かねがねそう思っているのですが、あえて今のスタイルでやってみることを試しているところもあります。

 

明治維新後、日本の教育が西洋の進んだ学問を取り入れるべく、科学的学習法も輸入してきたのでしょう。科学的とは、一言で言えば「分ける」ことです。あえて、右と左の選択肢を用意し、どちらかを選んでいくことで再現性も実現でき、広く社会に浸透させることができます。

 

文字に落とすことは、言いたいことのうち文字に落とせる部分だけを残す作業に他なりませんから、やはり分けることです。

 

しかし、東洋では、古来分けることをよしとしませんでした。禅に「不立文字」という言葉があります。禅の教えは、経典では学べません。師との会話(一休さんの「せもさん、せっぱ」です)や修行を共にすることにより伝承されていくと考えます。だから、文字は立たないのです。

 

古典芸能には、この考えがまだ残っています。いわば文化財です。なので、せっかく残った古来の「学び」をしっかり、体験してみたいと思うのです。

 

でも、つい先生に、「以前は○○だったのに、なぜ△△なんですか?何が違うのですか?」と質問したい衝動に駆られます。それに、耐えることも修行だと言い聞かせています。

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このページは、福澤が2009年4月 2日 10:52に書いたブログ記事です。

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