映画「小三治」を観て:師匠と弟子

当代の名人、柳家小三治師匠を約三年間取り続けたドキュメンタリーです。落語という芸の神髄、間の本質、師匠の芸への取組姿勢、兄弟弟子入船亭扇橋との枯れた友情、など、ははーんと唸るところ満載ですが、あえてやはり師匠と弟子の関係について考えてみたいと思います。

 

小三治.jpg 

弟子の三三(さんざ)の真打昇進が決まり、師匠と二人で慣れないインタビューに答えていました。

 

インタビュアー「師匠の稽古のおかげですね」

三三:「師匠には、一度も稽古をつけていただいたことはありません。」

横の師匠は、当然という顔をしています。

 

インタビュアー「二ツ目の名前のままで真打昇進ですね。三三という名は、かっこいいですよね」

師匠「かっこいいとしたら、名前がそうなのではなく、こいつがそれだけのことをしてきたということだろう。クソみたいなやつが名乗ればクソみたいな名前になるというものだ」

インタビュアー「もし、三三が変えたいと言ってきたらどうしました?」

師匠「三三は一番いい名前だと思ってつけた。変えないで昇進してくれて、ありがたいと思う。もし、変えたいと言ってきたら、本当に困っただろうなあ」

 

 

師匠の独演会に、弟子の禽太夫を前座として同行させました。前座が終わり、禽太夫は、出来映えに満足できず楽屋に戻ってきました。そして、モニターで師匠の高座を聞きながら、自分の着物を畳む。その表情には、悔しさと情けなさと申し訳なさなど、なんとも言えない表情でした。

 

ある日の楽屋。師匠は、これまであまり取り上げたことのない噺「鰍沢」をこれから演じます。黙々と自分で書いた噺のメモを目で追っています。その隣の部屋、といっても襖は明け放たれた続きの間では、弟子たちはバカ話に盛り上がっています。しかし、師匠が高座に上がると、弟子たちは食い入るようにモニターに集中しています。

 

楽屋で弁当を食べた師匠は、御手拭きでテーブルを拭きながら、

「知らず知らずに拭いている。これが、柳家なんだねえ。みんなそうだ」

 

 

師匠が、語ります。

「歌手にとって、楽譜は手段だ。物書きにとって、文字は手段だ。どっちも必要なのは心だ。心を表現するために、楽譜や文字があるんだ」

 

 

師匠は、観客に対してだけでなく、弟子に対しても心をストレートにぶつけているのでしょう。心は愛情と言い換えてもいいかもしれません。曇りのない心で接していれば、稽古などつける必要はないと言いたいのかもしれません。心に応えて、弟子が勝手に学ぶと。

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このページは、福澤が2009年2月28日 20:37に書いたブログ記事です。

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