日曜日、大好きな文楽を聴きに行ってきました。演目は、「女殺油地獄」。文字通り油屋で、女が油まみれになって殺される、救いのない怖い話です。鬼気迫る緊張感を大いに楽しんできました。
私が文楽を面白いと思うのは、とても日本的な芸能だと感じているからかもしれません。まず、歌せりふを「語る」太夫がいます。その横に三味線が座ります。そして、舞台では人形遣いが人形を操るわけです。この三業が、それぞれの役割を果たしながら、他の二業と合わせていく必要があります。ただ、単に合わせるのではだめだそうです。たとえば、太夫と三味線は相手に合わせるのではなく、ぶつかりあい、せめぎ合わなければ観客に訴える緊張感は生まれてこないそうです。人間国宝の太夫、竹本住太夫はこう言っています。
「むしろ合わせにいったら絶対あきまへん。相手の顔色を窺ってたら、切っ先が鈍る。それぞれが鎬を削るような、真剣勝負の舞台でなければ、お客さんの心に響かないんですよ。」
一方の人形遣いは、基本三人で一体の人形を操ります。メインは主遣いで、あと左遣いと足遣い。声を発せず一人の人間(人形)の整合した動きを微妙に表現しなければなりません。三人の息が合うと、人形遣いの姿は視界から消え、人形が人間以上に人間らしくなります。
このように文楽とは、自分の個性を出しながら、周囲との整合もとり、かつ火花を散らすようなぶつかり合いもし、それでも全体が一つの演目として完成されている、というなんとも微妙なバランスのもとでの擦り合わせの妙の芸術だと言えるのではないでしょうか。しかも、主導権は太夫にあるものの、指揮者のような役割はありませんし、三業揃って稽古することも、公演前の一度だけなのです。
また、おもしろいのは、舞台上で他の業によって自分の潜在能力が引き出されるという点です。例えば、若手の太夫がベテランの三味線と組むと、太夫はこれまで自分が到達できなかったレベルにまで芸を引き上げられることがあるそうです。さらに、観客からも力をもらうといいます。住太夫は、言います。
「お客さんのほうが興に乗ってこられる。その熱気に釣り込まれて、普段できなかったことがパッと演れてしまうことがある。そんな時は楽しいですよ。」
文楽って、日本の組織のありようと、とても似ていると思いませんか。日本の組織とは、単に自律した個人の集合体(合計した全部)ではなく、場すなわち演目に合わせて相互に影響を与えあっている柔らかいヒトの一座(全体)だという気がします。そんな理想の組織を、文楽を聴いて観ながら、味わっているのかもしれません。
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