日本人の行動・思考原理

人間にはさまざまな行動原理や思考原理があります。またそれらには、共通した原理を持つレイヤーがあります。例えば、人類、民族、国籍、性別、年代、などであり、最後は個人固有の原理にまで細分化されます。

 

我々日本人は、画一性が相対的に高いため、原理の存在や異質性に気付くことが不得手です。「話せばわかる」「結局同じ人間なんだから」など、異質性を否定したいとの言い回しは枚挙にいとまがありません。私もそれで何度も失敗してきたように思います。まずは、自分および自分が属すと考えられる集団の行動・思考原理を認識することが大切です。


日本人は日本人論が好きなのは、そんなところに理由があるかもしれません。ただし、日本人の行動原理を知って、「なーんだ、自分もしっかり日本人なんじゃん」と安心して終わる傾向があるようですが・・。大事なのは、自分の独自性を認識すると同時に他者の異質性をも認識し、自分と同じだけ他者を尊重するという姿勢だと思います。それがなかなかできない。

 

最近つくづく感じるのは、日本人は他者との関係を次の二つでしか捉えられないという点です。つまり、敵対的関係かそうでなければ合流する関係かのどちらかです。合流する関係とは、一方が他方を飲み込むか従属させる関係です。まれには、両者とも完全に各々の独自性を喪失してひとつになる関係もありえます。日本企業のM&Aを見れば歴然です。うまくいくのは三井住友銀行のように飲み込む関係であり、対等合併を志向したみずほ銀行は予想通りうまくいきません。(三行という数がそれをさらに複雑化し困難にしている)


欧米の企業は一般に、それとは違う関係を築きます。二社が独自性を維持しながら協力体、補完体を構成することを標ぼうします。そのほうが双方にとって「得」だからです。なぜそれが日本では難しいのでしょうか。そこには日本人固有の行動・思考原理が働いていそうです。

 

中根千枝氏の「適応の条件」には、そのヒントがたくさん書かれています。

 

1)日本人の人間関係は、特定の二者間の関係を基盤として構築され、その関係の累積が集団の組織となる

2)二者の相互関係は、異質性を認めず(二項対立がなく)連続を前提とする。すなわち、二者はそれぞれそれ自体個体としての独立性はなくなり、両者はつながってしまう(点と線の関係ではなく面となる)

3)この関係は、相手の意を本当に汲んだり、相手を充分認識するという能力を低下させる

4)そうすると、より積極的なほうが身勝手に主観的に相手を把握しやすく、力関係が問題解決の手段となりやすい

5)その背景としては、下位に立つ者が上位に立つ者に対して譲歩するのが当然という権力構造の助けを借りることによって、相互のアジャストメントをスムーズに行わせるというシステムの存在がある

6)また前提には、ヒエラルキーの頂点あるいは自己という基点を設けて、そこからの距離によって他の人々、集団を(同質のものを連続的に)位置づけるという社会の認識枠組みがある

7)その中で関心を持つのは、主観的には「より自分の(質的に)近くにいる」人々か、客観的には集団の格付けによる体系において「より頂点に近い」ところにいる人々である

 

上に列記したことそれぞれに、いろいろな現象を説明する事例がいくらでもあげられそうです。


こういう原理を当たり前と思い、原理が異なる人々に接するとどんな軋轢が生じるか、たとえば現在の日本の外交関係によく表れていると思います。


適応の条件 日本的連続の思考 (講談社現代新書)
中根千枝
B00CU8JRI6

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このページは、福澤が2014年3月 4日 11:38に書いたブログ記事です。

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