「考える」とは

以前読んだ仏教書に、「考えることをやめるべき」との教えがありました。正確にいうと、「無駄な考えをやめるべき」ということです。人間は考える時間があると、つい悪い方ばかりを考えてしまいがちです。最悪なケースを想定して、それに備えるという生物としての防衛本能なのかもしれません。

 

最初は何とも思わなかったのが、だんだん考えていくうちに「これはまずいかもしれない」と思いだし、最後には最初とは正反対の結論を出すことがありませんか?そして、たいていそういうときは、最初の直観が正しかった経験、私は何度もあります。四書五経のひとつ「大学」に「小人閑居して不善をなす」とういう言葉がありますが、これも同じことを言っているように思います。

 

無駄な考えとは妄想であり、それをするくらいなら考えないほうがいい。では、何が無駄でどうやってそれを知るのか、それが理性なのかもしれません。ことほどさように「考える」ことは難しい。

 

以上はインドや中国での見解ですが、日本固有の捉え方もあります。日本語の「考える」の語源をご存じでしょうか?ワキ方能楽師安田登さんの「あわいの力」によると、「か身交ふ」だそうです。「か」は接頭語でなので、もとの意味は「身」が「交ふ」、つまり身体が「交わる」状態を指すそうです。身体が交わるときに、すなわち思考が生まれる。(西田哲学の「主客合一」も想起されます)

あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)
安田登

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自分の身体が、外の何かと接点を持つことで、思考が生まれると考えるのです。これは、インタラクションの価値を明確に示しているように感じます。では、何と「か身交ふ」のがいいのでしょうか?安田さんは自然が最もいいと言います。

 

鳥のさえずりや葉のそよぎ、川のせせらぎの音を聞きながら歩いていると、いつしか「外」の自然と「内」の自己が「交わ」って、自分が普段思いつかないようなことが引き出されてきます。

 

すごく納得感があります。私も近所の新宿御苑を散歩していると、いろいろアイデアが浮かんできます。

 

さらに安田さんは、対象は自然に限らないと言います。

 

思考する対象と自分が「か身交ふ」ことも大事です。思考する対象と身体的に交わる、その時に思考する対象と自己との境界はあいまいになり、そこに思考が生まれるのです。(中略)環境や対象からの刺激を受けながら、身体という「あわい」でさまざまなことに思いを巡らす状態、それが「かんがる」という行為なのです。

 

日本の優れた「手仕事」、現場主義なども、こういう視点で見れば納得いきます。頭で考えると妄想になりがちですが、対象にどっぷり使ってインタラクションすることで、「考え」が身に下りてくるイメージでしょうか。

 

元来われわれ日本人は、頭で考えるより身体で考えるほうが得意なのでしょう。現在、「思考力」の強化が学校でも企業でも求められています。そこでの思考力は、合理的思考のことでしょう。確かに合理性は弱く、強化すべきと思います。しかし、頭で発する合理的思考の強化が、「か身交ふ」力を弱めているとしたら、その弊害は大きい。既にその兆候が出ているのかもしれません。

 

妄想ではない合理的思考と「か身交ふ」力、この両方のバランスこそが最も重要なのだと「考え」ます。

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このページは、福澤が2014年1月20日 11:24に書いたブログ記事です。

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