成瀬巳喜男監督作品はどれも大好きですが、私にとってのNo.1は、この『流れる』(1956年)です。先日7年ぶりに観ましたが、そ

の思いは変わりません。さらに、この映画のすごさを発見した思いです。映画作品に国宝制度があったとしたら、真っ先に国宝に指定されるべき作品です。
女性を描かせたらピカ一の成瀬監督ですが、当代の名女優をこれでもかと登場させ、しかもどの女優もこの人でなくてはという役を、見事に演じ切っています。女優の力と演出の力がシンクロして、それぞれくっきりとその役柄の性格を浮かびあがらせています。だれもが素晴らしい演技です。
大川端近くの芸者置屋「つたの家」が舞台。花柳界の没落を扱った作品ですが、そんな時代の大きな変化の「流れ」の中で、人々はどう生きていくのか、そういった普遍的なテーマをくっきりと描いています。
山田五十鈴演ずる「つたの家」の女将つた奴は、時代の変化を感じつつもどうしようもなく、時代の流れと運命をともにする弱くやさしい女。
杉村春子演ずる年増の芸者染香は、時代の変化に小賢しく立ち回ろうとするのですが、自らの小ささゆえ意図しないまま流されていくみじめな女。(勝代に酔って悪態をつくシーン、さらに後日つた奴に詫びるシーンのうまさには目を見張ります)
高峰秀子演ずるつた奴の娘勝代は、古い時代を嫌悪しつつ、自らの力でなんとか地道に新しい時代を生き抜こうとする、この時代を象徴する新しい女性。
栗島すみ子演ずる芸者あがりの料亭女将お浜は、時代の流れに棹して乗っていく、助ける振りをして利用することも厭わない強く賢く非情な女。(彼女は往年の大女優だそうですが、その貫禄たるや凄まじい!)
そして、田中絹代演ずる「つたの家」の女中お春(梨花)は、古い時代に卒なく適応しつつ、次の時代にも活かせる(普遍的)能力の高さを買われて新しい時代に抜擢されるのですが、それを潔しとせず、静かに身を引く見た目とは正反対の武士のような女性。
これら五人の女性は、大きな時代の流れに対する人間のパターンを代表しているのではないでしょうか。そういう意味で、非常に普遍的なテーマを扱った作品だと感じたのです。
私個人としては、お春に最も共感しました。経済的にはお浜がもっとも新しい時代に適応して成功することでしょう。戦後のどさくさで成功した人の多くは、お浜のような人だったのかもしれません。でも、今の時代から振り返ってみれば、それにどれだけの意味があるのかと考えてしまうのです。
日本の経済も社会も、バブル崩壊後大きな時代の流れに翻弄されています。それは昨年の大震災と原発事故をきっかけに、さらに加速するかもしれません。
しかし、そもそも時代の大きな流れとは、その渦中にいるときは、なかなかそうだと気づくことは難しいもの。映画の観客だから、上記のような分析ができるのであって、当事者となったら見えなくなるのが人間です。
ただ、たとえ見えたとしても、自分の振る舞いを決めることができるでしょうか、また決めたとしてもそれを実行できるでしょうか。そう考えていくと、結局どんな人間も「流される」ことでは変わりない。所詮人間の力とはその程度のもの、見えない何かに流され、操られている木偶なのかもしれません。
おまけ:
原作の幸田文は、自らの置屋での女中体験に基づいて、この作品を書いたそうです。つまり、お春が幸田文であり、ひとり静かに身を引いたとしても、時代が彼女の能力を放っておかず執筆に向かわせたと想像すると興味深い。作者も「流された」一人であり、流された結果この傑作が生まれたとしたら・・・。
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