人間の成長を最も阻害するのは、「わからない」ということを恥ずかしいことだとする暗黙の前提ではないでしょうか。
そんなことを考えたのは、昨晩のふたつのできごとです。ひとつは、アカデミーヒルズでの夜間オープンセミナー「損得計算入門講座」をオブザーブして感じたこと。
講座の冒頭に講師からこう話がありました。
「途中でも構わないので、わからないことがあれば手を挙げて質問してください。今日の内容をすべてわかっている人はそもそもこの講座に参加していないはずです。だから、わからないことは恥ずかしいことでもなんでもないんです。講師にとって、一番怖いのは誰も質問しないことです。その場合、わかっていると理解してクラスを進めますが、最後に『よくわからなかった』とアンケートに書かれたりするんですよね(笑)」
講座はどう進んだか?
前半はわりと、恐る恐るながら質問がいくつか出てきました。ところが、次第に内容が複雑になるにつれて、質問がでなくなっていったのです。明らかにわからなそうな表情の受講者もいますが・・。
受講者はほとんど知らないもの同士です。そこで仮に無知だとバカにされたとしても、大した影響はありません。でも、そういう問題ではなく、「わからないということを他人に知られてしまうことは恥ずかしいことだ」という社会的前提に抵触することが、自分として許せないのかもしれません。それほど大人にとっては強固な前提です。
では、小学校三年生の子供ではどうでしょうか?昨晩帰宅後、前日録画しておいた番組「ETV特集 輝け二十八の瞳 ~学び合い支え合う教室~」を観ました。
三年生14人が、わからないことを友達にきくことで進んでいく「学び合う教室」のドキュメンタリーです。以下、番組HPからの引用です。
そんな「学び合い」の出発点は「わからない」と問うこと。
しかし、従来の一般的な「一斉授業」では正解を求められるのが常識のため、 子どもにとって「わからない」をさらけ出すのは難しい。
子どもたちは葛藤を経験しながら、お互いの「わからないこと」を認め合い、高め合っていく。
ある男の子(写真の子)はこう言いました。

「一学期は、わからないということが恥ずかしかった」
当初は、算数の計算問題の答えを書き写すことに一生懸命だったそうです。
でも彼はその後、クラスの口火を切る「わからない」を毎回発するようになりました。そこから授業が動くのです。
無邪気な三年生の子供ですら、わからないことは恥ずかしいことだとの前提に縛られていたのです。
みんな「わからない」から学びあい成長していく、そんな当たり前のことが子供も大人も「わからない」。その結果、本来誰もが持っている潜在能力を発揮できない。こんなもったいないことがあるでしょうか。暗黙の前提のこわさです。
ひとりひとりの能力を最大限発揮できるような社会にしなくては、日本はこれから没落する一方でしょう。その出発点は、「わからない」をいう勇気にあるように思います。
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