先週末のTVニュースは、ノルウェイでのテロと中国高速鉄道事故がツートップでした。その後の報道でも、ノルウェイのテロは、平和な北欧の国のイメージが強い国でのテロだと、意外感に味付けされ、かたや中国の鉄

道事故は「やっぱりな」という妙な納得感に味付けされているような印象を受けています。日に日にその色彩を帯びてきているようにすら感じます。死者数も世界への影響も遥かに大きいテロの報道は影をひそめ、中国の事故に関する報道はその後の当局の対応への批判を加え、さらに強化されているようです。
正直に言いますが、最初鉄道事故の報道に触れたとき、私も「ほら、いわんこっちゃない」という感情が芽生えました。ところが、一緒にニュースを見ていた妻が、報道に対して「なんか大人げないね」と言うのです。私は不意討ちをくらったように感じました。
確かに私もニュースを見ながら、日本が50年以上かけて築いてきた技術に、中国がそう簡単に追い付けるはずがないとの思い(思い込み)がありました。これは合理的判断の帰結ではなく、感情です。頭の片隅で、中国高速鉄道で事故が起きてほしいとすら、思っていたのかもしれません。どこか、中国VS日本という枠組みで考えていたのです。これは小さなナショナリズムだと、その時思いました。

話は変わりますが、なでしこジャパンのワールドカップ優勝、これには感激しました。しかし、男子チームが勝つときとは、どこか異なる喜びだったように思います。男子チームでは常に日の丸を背負い、良くも悪くも日本という国家を意識します。それなのに、なでしこジャパンにはそういう感情を抱いていないのです。
もちろん日本チームが優勝したという事実は嬉しいのですが、それ以上に小さな選手ばかりのチームが大きな選手のチームを倒した爽快感、アマチュアばかりで恵まれない環境の中で練習を続けてきたチームが、プロ集団を破った痛快感、そういった喜びなのです。それがたまたまなでしこジャパンだったというと、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そんな感じです。それは他チームからの素直な賞賛のコメントをみても、確認できる思いです。つまり、国家の単位ではなく、チームそしてそれを構成する選手ひとりひとりに対する普遍的な賞賛と敬意から来る感情なのではないでしょうか。
意地悪な見方をすれば、男子チームはメインストリームなので、国家を背負うことを宿命づけられているが、女子はメインではないので、その宿命は背負わずにすんでいると言えなくもないかもしれません。でも、そもそも何がメインで何がサブかは誰がどうやって決めるのか、という疑問も湧いてきます。
いずれにしろ、一連の出来事で国家やナショナリズム、普遍的な価値についていろいろ考えさせられました。
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