日本が近代化、あるいは西洋化するにしたがって個人のアイデンティティが必要になってきました。それ以前は、個人という概念はなく、●●村のXXさんの三男坊で、こと足りたのです。職業も人生の過ごし方も、生まれた時点でほぼ決まっていました。そこに「個人」はありません。アイデンティティとは、『自分が自分自身に語って聞かせる物語』と精神分析医のR・Dレインはいいました。そんなもの不要だったのです。
しかし、その後世の中は変わり、自分の人生は生まれにこだわらず自分で決められるようになりました。自由です。しかし、自由と責任はセットですから、さまざまな苦労が新たに加わりました。当たり前です。すべて自分で決めなければならないのです。でもこれは、人によっては苦痛です。他人や世間に決めてもらったほうが楽だからです。それまでは、親や部落の長の一存にしたがってさえいればよかったのですから。ここから近代人の苦悩が始まります。必然的に「私は何ものか?」「なんのために生きているんだ?」という疑問に立ち向かわなければならなくなりました。これはつらい。
そこで、昭和初期にはそこに天皇という軸が設定されました。それですべてが決まります。楽と言えば楽です。そして、戦後は天皇の代わりを見つけなければなりませんでした。そこに現れたのが「会社」という概念です。疑似コミュニティーである会社は、前近代の「部落」の代替物となりました。そこでは、難しいアイデンティティは不要でした。「XX会社の課長です」で、ほぼすべて通じます。個人はやはり不要でした。
しかし、時代は再びめぐり「グローバリズム」というものにさらされ、「会社」コミュニティーが崩壊を始めます。一生面倒をみてくれると思っていたのに、そうじゃないと急に言われたのですから。そりゃ、慌てます。それがバブル崩壊後に起きたことです。「会社員」は一斉に不安に陥りました。何を信じればいいのか?自分はいったい何だったんだ?と、やはりアイデンティティを探さなければならなくなったのです。その隙間には様々なものが入りこみました。古くはオウム真理教をはじめとした新興宗教、おカネ、資格、MBA、オタク、怪しげな自己啓発セミナーなどです。もちろんそれぞれに意味はあるものばかりですが、あいまいな不安が支えていることは事実です。
そして東日本大震災を経た現在。被災者は、これから新たなアイデンティティを見つける長い旅に出ることになるでしょう。これまで培ってきたアイデンティティは否定され、現状を受け入れる「物語」を紡ぐ必要があります。これはつらい作業です。
また被災者だけに限りません。例えば、東京電力をはじめとした電力会社社員は、程度は違うかもしれませんが、同じようなアイデンティティ・クライシスに陥ることが予想されます。
さらには、効率至上主義、株主至上主義を標榜してきたグローバル企業は、経営スタイルの修正に迫られるでしょう。それは社員の意識の修正をも強いるはずです。やっと見つけたグローバル競争の申し子というアイデンティティの否定を迫られるかもしれません。彼らも被災者と同じように、自分の「物語」を語り直すことが必要なのです。
新し物語を紡ぐのに必要なのは、過去と折り合いをつける勇気と自分を客観視して未来に広がった物語を構想する想像力ではないでしょうか。自分の物語を想像できる人は、他者の痛みも想像できるはずです。
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