大相撲の八百長疑惑がマスコミを賑わせています。ことの本質は、八百長があったかどうかではなく、大相撲をどう日本社会の中で位置づけるのかだと思います。
子供の頃、不思議に思っていました。ボクシングの試合は年に数回しかTVで放映されないのに、なぜプロレスは毎週放送されるのか。私の実家近くの田舎の体育館にもプロレス興行が、数年に一回は来ました。そして、TV放送以外の日も、ほとんど毎日のように全国各地で試合していることを知りました。なんでプロレスは、そんなことができるのだろう。大きくなるにつれて、誰も教えてはくれませんでしたが、次第に分かってきました。プロレスは、スポーツではなく見世物なんだと。当時はやっていたローラーゲーム!と同じだ。
では、大相撲はなんなのでしょうか?スポーツなのか、神事なのか、興行(芸能)なのか?朝青龍の登場までは、それらの3種がいい具合に融合していたように見えました。しかし、朝青龍が活躍しだすと、アスリートによるスポーツだという色合いが前面に出てきたように感じます。つまり、最も強い者がチャンプであり、それ以上のものではない。当然、軋轢がうまれました。
もしスポーツであれば八百長は悪です。興行であれば必ずしも悪ではありません。人情相撲という言葉があるくらいです。
問題はこれまでの大相撲はいいとこ取りしてきたことではないでしょうか。国技という看板は神事に由来しています。だから横綱は他スポーツのチャンピオン以上に尊敬を集めます。それゆえ、国が収入をある程度保障しているのです。また、NHKが全場所放送するのです。
一方、スポーツだと思うから、一般のファンは真剣に勝敗に一喜一憂して楽しみます。もしスポーツでなければ、これだけ多くにファンが存在することはないでしょう。歌舞伎ファンと同じ程度だったかもしれません。
また、興行だから年に6度も本場所がありますし、地方では地元の勧進元が主催した巡業も行われます。
朝青龍は、興行をすっぽかし、神事を無視し、スポーツに徹したのです。八百長はあり得ないでしょう。しかし、興行や神事であれば、それは八百長とはいいません。白鵬は、あえて神事に戻そうとしたとも言えるでしょう。このタイミングで八百長問題が発覚したのは皮肉なのか必然なのか。
つまり、朝青龍の登場で問題提議された大相撲の位置づけが、今回あらためて問われているのです。もう、いいとこどりはできないでしょう。個人的には、スポーツを大前提にして、そこに日本文化のフレーバ-を加える方向だと思いますが、そこまで内部から改革できるかです。
これは、古い体質の日本企業が抱えている問題と相似形をなしているような気がします。
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