社員の自律化は、現在の日本企業共通のテーマのようです。経営環境がそれを促しています。それは事実でしょう。そして、常に参照対象となるのは、欧米企業における社員と企業との自立した関係です。いわく、個人が自律しており、会社に依存せず、自らの判断で行動している、不確実性がますます高まる状況においては、日本企業の社員もそうあらねばならない。
一方、自律が孤立を招き、利己主義に陥りやすいこともまた事実でしょう。個人主義と集団主義と、簡単に二分法で考えるのは危険ですが、両者にとって非常に重要かつ難しい問題です。
その厚さと重さゆえ、買っておきながら手を付けていなかったもう一冊の本を読了しました。
逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))
渡辺 京二
98年出版の渡辺京二著「逝きし世の面影」です。
「日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられた事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちであった。彼らが描きだす古き日本の形姿は実に新鮮で、日本にとって近代が何であったか、否応なしに沈思を迫られる」
と帯にありますが、それが的確に本書の内容を表しています。近代化とはひとつの文明が滅んだことなのです。それを理解できたのは、日本人自身ではなく、維新前後に来日した外国人でした。詳細な記録探索から、著者はそれを読み解いていきます。多くのことを考えさせられる、評判通りの名著です。
しかし、その文明が完全に滅んだわけではないと思います。私自身も、その残滓を感じることがあります。だから、その意味で日本はまだ特殊な国なのです。
最終ページにこうあります。
おのれという存在にたしかな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。(中略)しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させ得るということだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。
現代のわれわれ日本人も、心の垣根はまだ相対的に低いのでしょうか?だから、個の力を高めることが下手なのでしょうか?今以上に、心の垣根を高くしたとき、何を基軸にして暮らしていけばいいのでしょうか?
自律化とは、言うほど簡単なものではない気がします。
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