再現性を重視する科学では、正解が存在することを前提とします。一方、かつての日本では、必ずしも正解すなわち勝者と敗者を分けず、曖昧な落とし所を見つける「大岡裁き」が重視されてきたと思います。
ところが、グローバリズムの名の下で、日本人の「科学教」への改宗が驚くほどの速さで進みつつあります。
そんな中で、昔の日本映画を観るとほっとします。先日観た、「ここに泉あり」(昭和30年;今井正監督)は、地域を文化で立て直そうとの目的で設立された高崎の群馬交響楽団の創設初期の苦闘物語です。
芸術性追求と「食うこと」の挟間で対立する若い楽団員の悩みに、小林桂樹演ずるマネジャーが、こう言います。(うろ覚えですが)
「○○君の言うことも正しいし、君の言うことも正しい。どちらかが完全に正しく、もう一方が正しくないなんてこと、滅多にあるもんじゃないよ。」
その後、この対立構造はさらに進んでしまいます。「食うこと」派は、ちんどん屋のバイトにまで手を出しますが、空腹の芸術派は「演奏家としての矜持はないのか」と怒り、バイト代による小宴会のちゃぶ台をひっくり返し、大げんかとなるのです。食い物の恨みは恐ろしい。
そこへ、ちんどん屋姿を遠目で見ていた元楽団員の妻が、感激したと言って近所から集めたお米を差し入れます。喧嘩していた両派は、急にしゅんとなります。芸術家の、ちんどん屋姿は情けないという見方も、そこまでしてでも楽団を守ろうとする姿に感動するのも、どちらも正しいのです。(ちょっとずれますが、平和と空腹は両立しないという、有名な農学者の言葉も思い出しました。)
この楽団は、何度も解散の危機に直面しますが、その度に移動演奏会で訪れた山村の学校の子供たちや瀬病療養所の患者たちの喜ぶ顔や厚い感謝により、乗り越えます。強い組織の原型がそこにあります。
数年後、楽団は少しずつ成功をおさめ、東京の有名楽団との合同公演が実現します。かつてを知る東京側のマネジャーが、段違いに演奏力も向上しよくやったと病身の高崎のマネジャーを労うと、こう応えます。
「そうかねえ。ただ、毎日同じことを繰り返してきただけなんだが。それが、少しは鍛練になったのかなあ」
正しい組織の目的を見失わない限り、単なる毎日の繰り返しであっても、それが必ず進化を促すのです。
この時代の日本映画に共通するのは、たとえ貧しくとも、必ずや今日より明日が良くなるだろうという希望です。これほど人間にとって大切なものはないでしょう。もしかしたら、少し前の中国や今のベトナムが、その時代なのかもしれません。
科学教によって物資的豊かさを得ても、希望を失う。このジレンマから、人間は抜け出せるのでしょうか。
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