「評価」と「決定」の間に広がる大きな溝

評価と決定は一体のものだと思っている方は多いのではないでしょうか。評価するから決定できる。決定するには評価が必要だ。それはそうでしょう。でも、評価と決定との間には、大きな大きな溝があります。

 

 

骨董の目利きになるためには、本物をどれだけ観たかはとても重要です。でも、ただ観ただけでは、本当の眼は養われないと言います。では、どうすべきか。

 

身銭を切って、なけなしのお金を清水の舞台から飛び降りるつもりで、自分が本当に欲しいと思う骨董を買うことです。それも、青山二郎.jpgできるだけたくさん。もちろん、まがい物を掴まされることもあるでしょう。しかし、そういう傷が多ければ多いほど眼が鍛えられるのだそうです。

 

私の数少ない経験でも、何となくそれを感じます。単に、観ているだけの時と、買うつもりで観るときでは、本気さが違うのです。理屈ではありません。当然、学習効果も全く異なります。

 

 

自分は安全地帯にいて、評価するだけ、批評するだけなら簡単です。でも、自分がリスクを背負って「買う」という意思決定をすることは、全く次元の異なる世界に踏み出すことなのです。

 

 

これは、骨董の世界に限るものではないでしょう。私は、評価だけでなく、リスクを取って決定した人に敬意を払いたいと思います。成功、失敗はそれほど重要ではありません。人として付き合いたいか、学びたいと思うか、を決めている基準も、そんなところにあるような気がします。

 

他人はともかく、そもそも自分自身が決定し行動できる人間でありたいと切に思っています。

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このページは、福澤が2009年5月20日 12:49に書いたブログ記事です。

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