自分にとっての師匠とは、どういう人でしょうか。
普通の人は、落語家や職人と違って、別に誰かに弟子入りしているわけでもないですし、私淑している人がいるわけでもありません。
昨日の新聞に、作家の佐藤亜紀さんが面白いことを書いていました。
大学生の頃、英文の先生から「嵐が丘」を読んだかと尋ねられ、そんなものは中学生の時に読んだと自慢顔で答えたところ、「それで、本当にわかったのかい」と聞き返された。胸騒ぎを覚えて、あらためて読み返してみても中学生時代とそれほど違いはしなかった。でも、この胸騒ぎは以後もやむことがなかった。
この問いひとつで、その先生は佐藤さんの「師匠の殿堂」入りしたそうです。この、なんだか分からない胸騒ぎは、ずっと佐藤さんの考え方に影響を与えているのです。そんな問いかけをする人が、自分にとっての師匠なのかもしれません。決して、手取り足とり指導してくれる人ではなく。
19世紀イギリスの教育学者ウィリアム・アーサー・ワードという人がこんなことを書いています。
「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に火をつける。」
「それで、本当にわかったのかい」の一言は、佐藤さんに静かに決して消えない小さな火をともしたのでしょう。こういった師匠は、自分の周りにいく人もいるのに、ただ自分がそれに気付かないだけなんでしょうね、きっと。それに気付くかどうか、その差がヒトの学習能力を決めるような気がします。
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