福澤: 2012年10月アーカイブ

10/20に慶應ビジネススクール50周年記念カンフェランスが開催され、私も出席してきました。「ビジネススクールの未来」というセッションに参加したのですが、それは「慶應ビジネススクール2012年」というケースを使った、ケースディスカッションです。講師を務められた池尾先生は、これまでの教員生活で最もやりづらいクラスだったのではないでしょうか。何しろ、OB、現役学生だけでなく停年退職された歴代の教授陣も多数受講者として参加して、白熱の議論が展開されたのですから。

 

いくつもの論点が出たのですが、その中のひとつにこれからのビジネススクールは、専門家(財務、マーケティングなどの)養成を目指すべきか、それともこれまで通りGeneral management養成を目指すべきなのかというものがありました。

 

私はGeneral management養成を目指すべきとの意見ですが、良く考えてみるとそれはそう簡単ではありません。多くの専門領域をひと通り勉強すれば、総合的な能力が身に着くというほど簡単なものではありません。専門性を持たない中途半端なゼネラリストを多数輩出することにもなりかねません。

 

どうすれば総合的な経営判断ができる人間を養成できるのでしょうか?小熊英二著「社会を変えるには」を読んでいたところ、そのヒントがありました。同書にプラトンの「哲人王」育成プログラムについての記述があります。

社会を変えるには (講談社現代新書)社会を変えるには (講談社現代新書)
小熊 英二

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三十代の哲人王候補は、まだ不完全です。いろいろな学問を学んでも、まだそれがばらばらで、本質を直覚するという本当の狙いと、方法は違ってもどれも本質に到る手段だという諸学の共通性が、わかっていないのかもしれません。

 

そこで感覚を排した言論(ロゴス)で働きかけお互いがロゴスでやりとりし、相手の知性を目覚めさせる「産婆術」でもある問答法を学びます。そうして一人だけでは到達不可能な究極知に至ります。これは、諸学問を総合する術、諸学問の根底にある本質を感知するための術でもあるので、学問の最高の位置に置かれます。扇の要を探る作業だ、ということだと思います。

 

 

どうでしょう。現代の経営者育成にも共通する考え方だと思いませんか。扇の要がないまま、どれだけ専門知識を習得しても、人を動かすことはできない。相手の知性を目覚めさせ、また逆に自らも目覚めさせられる問答法、すなわち「対話術」を身につけてはじめて、諸知識の総合とそれらを使って難しい意思決定し人そして組織を動かすことができるのだと思います。優れた経営者は、それを体験の中で身につけているのでしょう。


過去の常識や前提が通用しない不確実性の下では、対話によってお互いが変化し、関係そのものを変えるしかありません。ここでの関係とは、人間とだけではなく環境との関係でもあります。人と対話し、周囲の環境とも対話しながら、関係性を変え自らも変える。そういう高い感性を持ったしなやかな知が、これからはより一層重要になってくるのだと思います。そういう文脈においても、対話の技術を磨くことは、必須なのです。

学ぶという行為は、本来一方的なものではなく相互作用のようなものだ、この実話に基づく映画「最強のふたり」を観て、あらためて確信しました。

 

富豪だが首から下が麻痺しているフィリップと、彼の介護に雇われた暴れん坊の黒人であるドリス。この二人の物語です。気難しいフィリップは、あえて自分に迎合しようとしないドリスを、多くの希望者の中から選びました。

 

二人の住んでいた世界はまるっきり正反対。フィリップは、クラッシクの名曲を生演奏でドリスに聞かせます。ドリスはストレートに(フィリップが期待しないような)感想を述べますが、そのコメントを新鮮に感じ面白がるフィリップ。そして、挙句の果てにドリスのiPodをスピーカーにつないで大音響で流したソウルミュージックに、一同が踊りだす。

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また、高尚な詩を散りばめた文通を密かに楽しむフィリップに対して、ドリスは無理やり文通相手に電話を架け、会うお膳立てをします。ラストシーンは、一度はフィリップの恐れから会えなかったその二人が、海辺のレストランで初めて会い、それを確認するかのように窓越しに離れていくドリスの姿でした。(この時のフィリップとドリスの表情が素晴らしい!)

 

このように、上流のフィリップが下流のドリスを教育する話なのかと思うと、そうではありませんでした。1964年の「マイフェアレディ」は、上が下を教育しながら、密かに心惹かれるというストーリーでしたが、2012年のこの映画は、上が下を教育しているようで実は上が下から学び、双方は固い絆で結ばれるという構造です。非常に現代的なストーリーではありませんか。

 

「上」と「下」は、過去の出来事や伝統によって規定されたものです。変化がなければ、上から下へナレッジが流れるのは自然です。しかし、変化が激しく過去に既定された上と下が意味をなさなくなると、弱いのは「上」です。なぜなら、強固な成功体験とそこから生み出されるプライドが、変化へ対応することを阻害するからです。一方、「下」は失うものはないため、いかようにも変化に対応して生き残ろうとします。従って、上が下から学ぶことも有効になってきます。

 

上であったフィリップが下のドリスから学ぶことができたのは、彼が最愛の妻を難病で亡くしたことと、自分自身がパラグライダーの事故で首から下は麻痺という二重の悲劇で大きな喪失感を持っているからかもしれません。

 

もうひとつは、ドリスは決して自分が下だとは思っていないからでしょう。面接に並んだ他の介護候補者たちは、身分としては自分が下だが、健康で介護してあげられるという意味では上なんだという、屈折した感情をフィリップに抱いていたとしても不思議ではありません。しかし、ドリスはそういう感情を一切持ちません。ただ自分があり、対等にフィリップにも接しているだけです。

 

ところが、映画が進むに従って、実はドリスはそういう態度を取ることで、フィリップが元気になることに気付いているのではないか、とも思うようになりました。そう、下の自分が天真爛漫に対等に接することで上を学ばせることができるのだと。そういう賢さをドリスは持っています。いえ、フィリップと接するうちにそういう賢さを身につけていったのかもしれません。ドリスもフィリップとの関係で学んでいるのです。

 

エンドロールに、現在のドリスは経営者として成功しているとの記述がありました。彼の素質がフィリップによって開花したに違いありません。

 

この二人の幸福な関係から、相互に学びあうことで強固な信頼関係を築ける(その反対ではなく)ことを学んだ気がします。心に沁みる、いい映画です。

パスツールの言葉に、「Chance favors the prepared mind」というのがあります。あえて訳せば、「常に心を開いてスタンバイしている人にだけチャンスは訪れる」という意味でしょうか。

 

多くの企業で、「学ぶ場」づくりに関わっているとその意味が実感としてわかります。例えば、先日ある企業で、部門長クラスを対象とした変革をテーマにしたワークショップを行いました。

 

各グループに投げかけた問いは以下3点です。

1)このままでいったときの10年後の我社の姿

2)あるべき10年後の我社の姿

3)あるべき姿に到達するために、いつ、なにを、どのようにやるか

それぞれグループでまとめ、全体発表をします。それを3回繰り返すわけです。

 

メンバーは、常に自部門が成功する方法を考え続ける人たちですが、ワークショップでは全社視点と10年という長期視点を持って考えてもらいます。

 

グループワークでは、自分の常識と自部門の常識、そして自社の常識に基づいて議論がなされることが、どうしても多くなります。そこで、第三者であるため「常識」を持たないファシリテータが、素朴な疑問を投げかけたりします。

 

それに対して、こんな回答を返した方がいました。

 

「そんなことは、このグループの皆も他のグループのメンバーもわかっている。なぜ、みんながわかっていることを、素人のあなたに説明する必要があるのか。そんな時間はもったいない」

 

「その意味は、皆わかっている。あとはわかりやすい日本語に置き換えるだけだ。そんなのは、得意な人が最後にささっとやればいい」

 

「うちの業界は特殊なんだ。一般的な企業の基準でそんなことを言われても意味ない」

 

彼らは、何となく阿吽で伝わる世界で生きており、そこから抜け出て考えるという発想がありません。そんな心構えで、どれだけ議論したところで、日々の業務の中での発想を超えるアイデアは出てきませんし、何の気づきもえられないでしょう。自分はわかっていない、ということがわからない。

 

これは大変もったいないことです。チャンスがそこここに転がっていても、それには全く気づくことができません。チャンスをつかむどころか、蹴り飛ばしてしまうでしょう。

 

そんな簡単なことに気付かないのは、なぜなんでしょうか。長年の思考の習慣の結果なのでしょうが、それだけではなさそうです。これまで築いてきた高いプライドゆえ、「わかっていない」ということを認めたくない。いえ、「わかっていないかもしれない」ということに、何となく気づいているから余計それを認めたくないのかもしれません。だとしたら、それは本人にとってもすごくつらいことでしょう。

 

幸いなことに、そういう考えの人ばかりではありませんでした。ファシリテータの発言に耳をそば立てて、少しでもヒントをつかもうと、どん欲な方もいます。ただ、得てしてチャンスをつかもうとしない人は、年長で声が大きかったりします。すると、つかもうとする人は遠慮して、発言を控えたり、あるいは年長者に合わせたりします。その企業の組織の縮図をみるようでした。

 

現在多くの日本企業の上層部は、バブル時代に最前線で活躍し成果を出してきた人が占めています。そういう成功体験が大きい人ほど、「自分がわかっていないことをわかっていない」ため、the prepared mindを持っていない傾向があるようです。経営環境は大きく変わりつつあるにもかかわらず。

 

こういった「昭和の日本の会社」をどう変革するか。こういった企業の社長はほんとうに大変だと思います。

 

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