教養

先週の4/15、三重野康元日銀総裁が亡くなりました。バブル退治で有名ですが、バブル崩壊後の失われた20年のきっかけをつくった総裁との評価もあるようです。世間の評価はともかく、戦前の教養主義の薫陶を受けた最後のリーダーのひとりだったのかもしれません。

 

昭和16年ともに旧制一高に入学した長岡實氏の追悼コメントにこうあり、なぜかじーんとなってしまいまし

三重野氏.jpg

た。

 

三重野が総裁になったとき、私は東京証券取引所の理事長。彼の金融政策は間違っていなかったと思う。G7などでの国際的評価も高かった。堂々たる人生だった。男らしい男だった。

 

また、この記事が出たのと同じ日、日経朝刊の「大学開国」という連載記事に浦野ニチレイ会長のこんなコメントがありました。

 

教養教育を重視した旧制高校の出身者が社会の第一線を引いた1990年頃から、失われた20年が始まった。彼らは日本文化も西洋文化も理解し、エートス(行動基準の大本)を持っていた。

 

教養は大学だけで見につけるわけではないので、大学教育に「失われた20年」の要因を見出すのは無理がありますが、関連はあるように思います。では、日本から教養教育、あるいは教養が失われたことで何が起きたのでしょうか。

 

これは個人的解釈ですが、現在の自己を起点にした非常に身近な世界をなかなか超えられなくなっているではないでしょうか。二つの軸があります。ひとつは時間軸。つまり、「今どうなんだ」、というせっかちな思考。スピードに追いまくられ、常に今日明日のことを考え続けざるを得なくなっていませんか。もうひとつの軸は、距離感の軸。一番近いのは自分で次が家族、そして友達、会社、地域、国・・という広がりの中で、遠くのことが考えられなくなっていませんか。グローバル化が進み、今ほど世界中の情報を入手できる時代はないにもかかわらず、逆に近くの情報ばかり目にする機会が増えたような気がします。

 

話は少しずれますが、先日鳩山元首相がイランを訪問し、IAEAはダブルスタンダードだと言った言わないで問題になりました。マスコミの論調は、「国内政治が大変な時期に、のこのこ世界中から問題視されているイランに行って・・・、そらいわんこっちゃない」というものでした。しかし、発言内容は別にして、IAEAがダブルスタンダードなのは明らかですし、四面楚歌となっているイランに利害関係が比較的薄い日本の政治家が訪問することは、世界的に見ればそれなりに意味があることだと思います。でも、世界政治より国内政局が大事、つまり遠くのことを考える暇があったらもっと近くを見なさい、という論調は当然のごとく国民に受け入れられたようです。私はそれでいいとは思いません。

 

このような「今の、近くのこと」に関心を集中してしまうことを防ぐには、長期的な視点や歴史観をもって、世界や人類の将来を考える力を身につける必要があります。それこそが教養ではないでしょうか。教養があってはじめて骨太な思考や意思決定ができるはずです。でなければ、目先の損得ばかりに目が行ってしまう。近年の自己啓発ブームや、キャリアアップ、スキルアップ志向をみるにつけ、ますます教養と反対の方向に向かっているように思えてなりません。

 

伊丹教授(東京理科大)は「よき経営者の姿」という本を、第1章「顔つき」から書き始めています。私も、少ない経験からですが「顔つき」は教養の深さを如実に表すような気がしています。近年の経営者は、株主から四半期ごとの業績を責められて、それどころではないのかもしれません。


ところで、三重野氏も本当にいい顔をしていましたね。合掌。


よき経営者の姿
伊丹 敬之
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このページは、福澤が2012年4月23日 19:13に書いたブログ記事です。

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