共通体験に基づく共同記憶

ドイツの中央銀行は、極端にインフレを恐れることで有名です。アメリカ人は、身を守るための銃の規制には、驚くほど頑なに抵抗します。日本人は、ことコメについては主食とはいえ非常に神経質です。

 

それぞれには理由があります。ドイツは第一次世界大戦で負け超ハイパーインフレで苦しみました。それがナチスの台頭を促したという見方もあります。アメリカは、イギリスなどから大陸に移住し自分の腕一本で開拓してきた開拓者の末裔の国です。銃はその精神の象徴なのかもしれません。日本は言うまでもなく、何百年にわたりコメが通貨の役割もはたしてきました。そして、凶作による米騒動や敗戦直後の貧困など、苦しい記憶とコメはいまだに結びついているようです。これらは、長い時間が経過しても、同じ体験を自分もしたかのようにそれぞれの国民の精神に染みついているのだと思います。民族の記憶ともいえるでしょう。理屈ではありません。

 

このように大多数の人々が同じ体験をすることで、後世の人々にまでその記憶を伝承するのです。逆にいえば、人は自分が思うほど「自由」な思考を持っているわけではないでのす。

 

今回、主に東日本の人々は地震、津波、原発事故という3つの危機に直面しています。人々は地震と津波への記憶は持ち合わせていましたが、原発事故の記憶、体験はありません。あえて近いものを探せば、広島と長崎に落とされた原爆と、昭和29年に起きた第五福竜丸の被爆事件かもしれません。しかし、それらは「平和への祈り」というコンテクストで記憶されていますが、放射線の恐怖というコンテクストではあまり記憶されていない気がします。アメリカとの関係、経済成長のためには原子力を使った発電に頼らざるを得ないといった理由などから、あえてその面からの記憶にふたをしてきたのではないでしょうか。しかし、それらを体験として知るお年寄りは、今回の原発事故に我々が想像できないほど恐怖を感じているという話を聞きます。そう考えれば、国民の記憶とは、なんらかの意図によって操作された記憶ともいえそうです。

 

 

現在起きている三重苦ともいえる危機を共通体験している我々は、どのような共有された記憶をこれから紡いでいくのでしょうか。それは、今回の危機をどう捉え、そこからどこに向かっていくのか次第だと思います。未来があるからその文脈に沿った記憶があるのです。

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ほおっておけば、17世紀のポルトガルのように国家没落の引き金としての災害と言う記憶になりかねません。そうではなく、未来の人々の記憶に「2011年の三重苦が日本を生まれかわらせた。想像もできない危機のたびに日本はよりたくましく生れ変る国なのだ」と記憶させたい。既にその記憶はすべての日本人の底流にはあるはずですから。そのためには、徹底した反省と国民を団結させるビジョンが必要です。

 

こういった共通体験に基づく共同記憶のマネジメントは、今後企業においても重要になってくると考えます。ビジョンとかバリューとかウェイとか盛んに叫んでみたところで、それが構成員の「共同記憶」に組み込まれていなければ意味がありません。経営者とは、ステークホルダーに対して好ましい共同記憶を植え付けることに責任を負う存在なのかもしれません。



おまけ)

今、新宿御苑の桜は満開です。桜を眺める人は例外なく、穏やかで優しい表情をしています。これは、私たち日本人には桜についての「共同記憶」があるからではないでしょうか。入学式、花見の宴会、花筏、京都、西行、吉野山、義経、特攻隊、眠っている死体、花吹雪などなど、それぞれの人が自分のストーリーを持っています。それらの総体としての「桜の記憶」が、穏やかで優しい気持ちにしてくれるのでしょう。

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このページは、福澤が2011年4月 7日 11:33に書いたブログ記事です。

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