プリコラージュと野村再生工場

野村監督が亡くなり、あらためて氏の凄さが評価されているようです。昨日の朝日新聞朝刊で「野村再生工場」という表現について、「再生工場」より「プリコラージュ」の方が適切だろうとのコメントが出ていました。(by岡田美智男 豊橋技術科学大教授)

再生から連想されるのは、壊れかけた部品に手を加え元の機能を取り戻すというニュアンスですが、野村監督がやったのは決して衰えた能力を元に戻したのではなく、衰えた部品なりの能力が発揮できる「場」を見極めて、そこで活用する方法に長けていたとの論です。確かに以前時速150kmで投げていた投手のスピードを、再度150Kmで投げられるように再生させたわけではありません。135kmでも勝てる場を見つけだし、そこに適応するための支援をしたに過ぎないのでしょう。

「プリコラージュ」は私も好きな言葉で、もともとはフランスの人類学者レヴィ=ストロースが「野生の思考」で用い、広く使われるようになりました。「必要な素材がなくても手近にあるもので間に合わせる能力」という意味で、「ありあわせを集めて問題解決する能力」とも解釈されます。

アポロ13号も致命的トラブルにみまわれる中、宇宙船内にある器材だけで何とか修復を成し遂げ帰還できました。それがプリコラージュの力。宇宙船内同様、昔はモノが不足しているので、そこにあるものを有効活用するしかなかった。 昔の職人は言うに及ばず、市井の人々もそうして暮らしていた。今でも、古くなって使えなくなったものや、包装紙やリボンなどを捨てられない人がいますが、いつかどこかで役に立つかもしれないというプリコラージュの精神が根付いているのでしょう。

しかし、資源が豊富に溢れる現代においては、やや時代遅れの感も否めません。ミニマルや断捨離の流行は、モノがあふているからこそ起こっているのです。プリコラージュの正反対です。

野村監督は、選手層が薄くプリコラージュで勝つしかなかった。いい選手がいなければトレードで獲得できる巨人とは違います。

しかし、考えてみれば日本企業も、これまでは全く同じでした。有能な即戦力社員を高給で中途採用することなどできませんでした。新卒で採用したプロパー社員で戦うしかなかった。だから、新卒採用には昔から力を入れていましたが、それでも採用時点で本当に有能なのかどうかはわからない。実際、いいと思って採用したものの、そうではなかったということもざらだったでしょう。確率の問題です。だから、有象無象の集団であるプロパー社員を何とかうまく活用するしかなかった。そのための知恵の集積が日本的経営でした。社内の頻繁な異動も、能力をより発揮できる場を見つけるための活動だったとも言えそうです。経営者は持ち駒で戦うしかなかったのです。

野村監督は、古き良き日本の企業組織を象徴していました。しかし、バブルの頃からかプリコラージュよりも資本を投入し即戦力を獲得する戦い方にシフトしていきました。変化の時代にはそれも必要でしょう。ひとつの組織の中で、プリコラージュと即戦力獲得をどう組み合わせていけるかが、日本企業の最大の課題といえるのではないでしょうか。

ただ、ひとつ言えるのは、日本人は伝統的にプリコラージュに長けているということです。そのことを忘れるべきではないでしょう。

「青木野枝 霧と鉄と山と」展を観て

青木さんの作品はとにかく大きくて重い。だから、都内の展覧会で観ることはなかなかできません。それが今、府中市美術館で開催されているので、昨日観にいきました。

さすがに美術館の室内で観ると迫力があります。これだけ大きな作品ですから、部分を運び込んで、展示会場で組み立て完成させるそうです。だから、完成作品には、会場の「場の力」のようなものが作用するらしい。

重たい鉄を切断し溶接して組み上げる作品は、身長をはるかに超える巨大な作品です。

これは霧島アートの森での展示風景ですが、府中にもきています。

鉄は重くて固くで鈍重だとイメージがありますが、青木さんの作品は、その凝り固まった思い込みをぶち壊してくれるほど、軽やかなのです。自分のイメージをぶち壊してくれることで、なんとも言えない爽快感を抱く自分を発見します。これがアートの力です。

下の作品は、大きな鉄の管をスライス、それを半分に切って半円形にした鉄骨を組み合わせてあります。その鉄骨に対して垂直に枝のように鉄が突き出ており、先端になんと卵が針金で固定されています。固い鉄と柔らかくて儚い卵の組合せに、意表を突かれます。得も言われぬ不思議な感覚。

untitled,1992
http://anomalytokyo.com/artist/noe-aoki/

他にも思い込みや常識を揺さぶる、面白い作品がたくさんあります。

以下の動画で、その一端でも味わってみて下さい。

思考すること

「思考力を鍛える」というフレーズほど、人材育成の世界でよく聞く言葉はないかもしれません。では、思考力ってなんでしょう?そう問われると、途端に答えに窮してしまうのが常。結局、それは突き詰めず、手法を学ぶことに終始してしまいがちです。

私自身も、それを突き詰めることを避けてきた気がします。たまたま手に取った本に、そのヒントがありました。「人は語り続けるとき、考えていない」です。

「考える」ことは、自分の想定とは異なる事態が起きたと認識した時に始まる。つまり、「驚き」を感じた時です。想定とは異なるため、何らかの対応を迫られる。普段あるはずのところに鍵がないとき、一瞬驚き考え始めるでしょう。思考開始です。

驚くとその直後に、「感情」も起こります。何で昨晩、あんなに酔っぱらってしまったのだろうという後悔だったり、妻が勝手に鍵を動かしたのではと疑い、小さな怒りが芽生える、など。もちろん喜びもあります。予期せぬプレゼントももらったときとか。感情とは、驚いた状況に対する自分の評価とも言えます。

予想外の事態に驚き、即座に感情が芽生え、同時に驚きを中和するように、すなわちそこで発生した問題を解決するために思考するのです。

感情とは反射的に起こるもの。考えて感情が芽生えるのではなく、過去の経験に基づき自動的に引っ張りだされるものといえそうです。一方の思考は、反射的ではなく一歩引いて、感情的反応以外の選択肢を探すこと。つまり、より良い自分に変わるための、主体的な行動です。

このように感情は思考のエネルギーとも言えますし、逆に思考を妨げるものにもなりえる。ところで、感情はそうそう持続するものではありません。従って、持続的な思考のエネルギーとなり得る感情とは、もっと強いものです。日本語のニュアンスでは「情念」です。情念はたやすく消えない感情なので、持続的な思考を促すことができる。つまり、思考は情念によって動機づけられる。

一般的に思考力が高いと言われる人は、決してあきらめずに考え続けることができる人です。情念がベースにあるので、知的にしつこい。

さてここからが本題。思考力は三つの側面から成るそうです。(リップマンによる)
1)批判的思考
ある考え方の真偽や妥当性の根拠を疑ってみる態度。情報や前例、慣習を鵜呑みにするのではなく、意識的にそれらの根拠を検討する。不確実性が高い世界において必要とされる、強い信念体系を構築することができる。

2)創造的思考
新しいものを生み出す思考であり、想像力を発揮し失敗を恐れず実験を繰り返す。発散思考ともいえます。批判的思考はその反対で、検証思考、収束思考です。

3)ケア的思考
ケアとは、配慮、気配り、世話するという意味です。思考する対象への気遣いであるとともに、思考の仕方への気遣いでもあります。

例えば、決して残業をしない部下がいたとします。上司としては驚き、怒りが芽生えるかもしれない。部下の態度を改めさせることが問題解決だとする。批判的思考であれば、部下に対してトクトクと論理的に説得に努めるでしょう。創造的思考であれば、部下に残業させる方法をあの手この手と考え繰り出すかもしれない。ケア的思考であれば、部下の気持ちを慮ってみて、自分がどういうアプローチをすれば部下の気持ちを理解し、そして変えることができるかを徹底的に考える。

三つのうちのどの思考が重要ということではなく、状況よってこれらを組み合わせることが必要です。しかし、これは非常にエネルギーのいることです。途中であきらめて、安易な道、すなわち他者の発言や過去の慣習、前提をそのまま受け入れることに逃避してしまいがち。だから、それに打ち勝つには驚きや情念をしつこく持ち続けなければならないのです。

「卓越した教師は生徒の心に火をつける」という言葉がありますが、火をつけるとは強い情念を芽生えさせるということなのだと思います。火さえつけば、後は自律的に思考を深めていけるのです。

「黒川能」を読んで

能に関わっている人で、黒川能を知らない人はいません。プロの能楽師も、真冬の雪深い庄内、黒川を訪れて。住民によって徹夜で繰り広げられる能と狂言を堪能しています。

黒川能は、村の春日神社への奉納として、500年以上にわたりひそやかに伝えられてきたものです。 500年以上とは江戸時代より前、つまり江戸幕府により式楽となるより前の、能の姿を留めているのです。室町時代、世阿弥によって完成された能は、江戸幕府の庇護の元で、その姿は変わっていったと考えられます。それ以前の原型が黒川に残っている、能の正倉院ともいえる存在なのです。だから現在の能楽師も足を運ぶのです。

その今では有名な黒川能も、半世紀前迄はほとんど知られていませんでした。あくまで奉納ですから、外部に対して開くことには抵抗があったのです。

その壁を切り開いたのが、著者の船曳由美さんです。昭和39年のことでした。当時まだ平凡社入社三年目の船曳さんが、写真家の薗部さんと約一年以上黒川村に通いづめ、村人の信頼を得て、雑誌「太陽」昭和41年2月号で発表。そこから知られていったのです。

船曳さんとは以前からご縁をいただいており、黒川能を最初に広めた方だとは存じていましたが、この本を読みその偉大さがはっきり理解できました。

私は2016年2月1-2日の 王祇祭(おうぎさい) を観に行ってきました。 王祇祭は、上座と下座によって同時に別の場所(当屋)で夜を徹して演能されます。事前に郵便で申し込む際に、どちらかの座を選ぶ必要がありました。その頃、たまたま船曳さんに会う機会があったので、「どちらの座を申し込んだらいいと思いますか?」と迂闊にも質問してしまいました。すると、船曳さんは、「あらっ、黒川能に関する文献は読んだの?全て読んでから質問にいっらっしゃい」とピシャリ。今回この本を読んで、いかに自分が愚かだったかをあらためて認識させられました。

さて、当屋に王祇様を迎えて明け方まで能を続けた後、二日目は春日神社での奉納となります。そこで、当屋で能を楽しんだ王祇様を、早朝に春日神社にお戻ししますが、そこにも仕掛があります。それを朝尋常といって、上座と下座が 石段を駆け登り、王祇様をどちらが早く春日神社内にお入れすることができるかを競うのです。 以下の動画はその時(2016年2月2日)に撮りました。上座が勝利し、大喜びする姿が微笑ましかった。

ところで、船曳さんには「百年前の女の子」(2010年、講談社)という、お母様から聞いた話をもとに書いた素晴らしい著書があります。

そのお母様とご本人が、モデルとして登場する小説があります。庄司薫著「赤頭巾ちゃん気をつけて」です。私も高校生の頃読んだ、思い出深い作品です。その中で、主人公の高校生・薫クンの女友達に由美ちゃんという女の子が出てきます。(由美ちゃんのママも)。そのモデルが船曳さんです。「舌咬んでしんじゃう」と由美ちゃんが言うフレーズが、なぜか私の耳に今でも焼き付いています。船曳さんには、そのフレーズをしゃべったのか聞いてみたいと思いながら、いまだに怖くて聞けません。

話が逸れてしまいましたが、本書「黒川能」のなかみについては、河野通和さんのブログを読んで下さい。私が書くよりも100倍わかりやすいですから。

河野さんも書かれていますが、「あとがき」も秀逸です。その中で船曳さんは、本書を「50年前の女の子」というような表現をしています。つまり、お母さんについて書いた「100年前の女の子」に対して、本書は自分のことについて書いたものなのです。黒川能を語り語りながら、50年前の自分自身をいとおしく思いながら描いている。そう私は読みました。怖くて、そんなこと聞けませんが・・・。

著者の船曳さんと(2020/2/20)

「非常にはっきりとわからない」を見て(2)

(年を越えてしまいましたが、続けます)

美術館7階、立ち止まって長い時間不思議な作品を眺めていると、美術館スタッフと思われる若い女性から、部屋の入口辺りまで下がるように促されました。そして、作品にカーテンがかけられ見られなくなりました。

さらに工事作業員らしき若い男性も加わり、彼の指示によって室内に置かれた備品?などの移動を二人で始めました。私と他のお客さん(一組)は、何がなされるのかと、片隅で見続けました。少しずつ加わる新しいお客さんも、足を止め怪訝そうな顔で見ています。

時間が経つにつれて、私は二人が意味のないことをしているのではないかと思い始めました。A地点にあるものをB地点に移動させ、その後再びA地点に戻す。

しかし、その場を離れるお客さんは多くはありません。皆、これから何かが起こるはずだと期待しているようです。ついさっきまで、私もそうでした。「これは変だ」というような声を上げる人は誰もいません。

私は、そうした他のお客さんの表情を見ることが、だんだん面白くなってきました。ちょっと趣味悪いですが。

だいぶ時間がたって、二人は 室内を最初の状態に戻しおえると、再び作品を隠していたカーテンを開けて去っていきました。

美術館に作品を観にくるお客さんは、そこに観るに値する作品があることを当然の前提としています。それに疑問が生じても、そんな自分自身の方を疑い、信じつづけようとします。そういった前提や思い込みを、思いっきりぶち壊すのが、このパフォーマンス?だったのでしょう。肩すかしに合い気分を害した方もいたかもしれませんが、私はなんだか痛快な気分になりました。

次にエレベータで7階から8階に上がり、新しい会場に足を踏み入れると、頭の中がまたしても????でいっぱいになりました。あれ??、エレベータで8階に上がったはずなのに・・・。ここ7階?目に入る会場内の様子が、さっきまでいた7階と全く同じなのです。さっき感銘を受けた針金の作品も、まったく同じ場所に同じように展示されている。よくみると、作業中のため散らばっていた箱や梯子など備品類も同じです。

これは、一階にあった備品類ですが。

そこで、再びエレベータで7階に移動し確認しました。そこはやはり同じ風景。7階と8階で、床に捨てられている紙テープの位置まで同じでした。エレベータは実は移動していなかったのか?とも一瞬考えました。パラレルワールドも、瞬間頭をよぎりました。 でも、どうやらそうではなさそう。 つまり、2フロアーに渡って、全く同じしつらえを造りこんでいるのに、間違いなさそうなんです。

フロアーごとに見える景色が異なるはずだ。 これも私の思い込み。まさか美術館でそこまでやるとは思いもよりませんでした。しかし、これも思い込み。毎日自分が、どれだけ思い込みで生きているのか、痛感させられました。人間は、眼で見ているようでそうではない。既に頭の中にあるイメージを確認するために、「見ている」のです。

しょせん私の目はいいかげん。見ても、「非常に、はっきりとわからない」のです。アートの機能のひとつは、見る人が意識していない思い込みに疑問を抱かせ、心にさざ波を引き起こすことだと思います。そういう経験はなかなかかできるものではありません。だから、アートは楽しい!

これらの作品は、「目[mé]」 という現代アートチームによるものです。本当に面白かったです。

新年のご挨拶

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

年末年始のお休みは、じっくりとものを考えるには最適の時期です。今年はこんなことを考えました。

昨年、日本も世界も混迷の中にありました。その理由の一つに、社会学でいうインスツルメンタル(instrumental)への偏重があるのではないかと考えます。

インスツルメンタルとは、合理性に基づく目的思考の行動を指します。世界は原因と結果とでできており、目的を達成するための正しい行動をすべき。未来のゴールのため、今我慢するのもやむを得ない。適切なゴールと手段が定まるのであれば、それで良かったでしょう。果たして今はどうでしょうか?

社会学者パーソンズは、その対義語としてコンサマトリー(consummatory)という造語を作りました。コンサマトリーとは、自己充足的と訳されることが多いようですが、「今、ここ」の楽しさや心地よさを大切にする考え方です。享楽的とは違います。未来のために生きるよりも今のために生きる、そうすることがよき未来に通ずる。

合理性に従うことも大切ですが、今の時代予測困難で合理性では判断できないことが多すぎます。また、現代において能力を最大限発揮できるのは、「未来のどこか」のためよりも「今、ここ」のためだという気がします。

コンサマトリーにもう少し注意をむけるべきではないでしょうか。だから、自分自身に問う。「何が楽しいか?」「どっちが美しいか?」

TDK澤部元会長が若い頃、当時の社長にこう言われたそうです。

「君はあほやから、何が正しいかをわかるのは難しかろう。ただ、君でも花や景色の美しさに感動する心はあるはずや。美しいものを求めなさい」(日経新聞朝刊2019/12/31)

澤部氏は社長時代、迷うとこの言葉を思い出して「この判断は美しいか」と自問自答したそうです。

判断基準を自分自身に求めることは厳しいことです。日々、自分の内面に向き合い、美意識を磨く。その実践をささいなことでも積み重ねることが、コンサマトリーな姿勢ではないでしょうか。因果に絡め取られずに、「今を生きる」ことは禅の教えでもあります。

人材・組織の開発支援に携わるものとして、コンサマトリーを意識していきたいと思います。それが一番楽しいはずですから。

本年も引き続きご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

2020年1月6日

株式会社アダット

代表取締役社長 福澤 英弘
fukuzawa@adat-inc.com

https://www.adat-inc.com

「非常にはっきりとわからない」を見て(1)

千葉市美術館で開催されている、かなり変わった展覧会を観てきました。

タイトルは、「非常にはっきりとわからない」。

確かに、その通りでした。はっきり言って面白かったです。ただ、私の乏しい語彙力ではそれを伝えるのは困難です。そこで、朝日新聞夕刊の「回顧2019 美術 私の3点」から転記します。

アートは人を驚かせればいいってもんじゃないが、ここまで周到に驚かせれば立派なアート(村田真 美術ジャーナリスト)

驚天動地のインスタレーション。美術館を「目」で「見る」ということはどういうことなのか、それを問い直されて、頭を殴られたような気がした。(山下裕二 美術史家)

この作品は、目(me)というアート集団によるものです。作品と言っていいのかすら、わからない。12月28日迄開催しているので、もしこれから見に行きたい方は、以降読まないでください。楽しみが激減しますので。

一階受付で係員から、床に貼られて線の内側だけを歩くことと、決してスマホで撮影しないことを約束させられます。線内はともかく、最近はSNS拡散を期待して、スマホ撮影OKの展覧会が増えていますが、ここではNG。

受付の奥のフロアは、展示のためと思われる養生作業の途中のようで、梱包道具や箱などが乱雑に置かれています。(ここだけ撮影OK)

会場は7階と8階の2フロア。そこを通り過ぎ、エレベータで7階に向かいました。エレベータを降り会場を歩くも、やはり作業の途上。陳腐な油絵と掛け軸だけが展示されていますが、箱や養生道具などが雑然と散らばっています。

一番大きな展示室に入るもそこも、同じく作業中。ただ、その奥に唯一と言っていい作品が設置されています。遠くから見るとトンボやアブにも見える二枚の羽のようなものを持つ物体(3,4cmくら)が、天井からぶら下がる数多くのピアノ線のようなものに大量に固定されています。遠くから見れば、黒っぽい雲のように見えるほどです。

近づいてよく見ると、それは小さな二本の針金のような物体が中央部でつながっている物体です。さらに一つをじっと見てみると、時計の針だということがわかりました。小さい置き時計の長短針と小さなムーブメントのようです。さらにじっと見ると、秒針もあることがわかりました。

数秒後、その小さな秒針が動いていることに気づきました。あっ、この物体だけ秒針が動いているんだと思います。そして、周囲の物体にも目を向けると、なんと他の物体の秒針も動いています。あれっ、さっき見たときは動いていなかったのに。少し離れた物体の方に移動し、じっと見てみるとやはり動いている。そうです。ほとんどの物体の秒針は動いていたのです。

私はショックを受けました。それまでは、動いていないただぶら下がっているだけのおかしな物体と思っていたのが、全部動いている。私はこれまで何を見ていたのだ!

人間の「見る」という行為のいい加減さを、突き付けられたように感じました。遠くからは個別の存在の動きは見えてない。しかし、近づいてみると個別の存在の動きは見える。だが、周囲の存在の動きは見えない。どうすれば全体の動きを見ることができるのか。私はしばらくそこに立ち続け、いろいろ試してみました。

そして発見しました!

目のピントをあえてぼかして、漠然とできるだけ広い範囲を眺めるようにするのです。多分、間抜けな寄り目になっているのでしょう。こうすると、手前にある物体もその奥にある物体も、また左右上下の物体も何となく視野に入ってきます。もちろん凝視していないのでピンボケの像です。ただ、目に入っている物体の秒針が全て動いて見えるのです。いや、動いているどころか躍動しています。驚きの景色でした。

よく見ないことでよく見える。それら物体を人間や社会に見立てることもできるのでは、という思いがふつふつと湧きあがってきました。私にとっては、もの凄い気づきです。

私は一所懸命に「見よう」としてきたけど、ほんの一部分しか見えていなかったのでは。あるいは、漠然とみんな同じだと捉えていたのだが、ひとつひとつが別個で、それぞれの異なる想いで動いているのでは。個別を理解しながら、全体も正しく把握するには、自分の能力を過信してはいけない。そうすると空回りしてしまう。力を抜いて、時には間抜けに見られるくらいの態度で他者と接することが重要なのではないか。

(1回ではこの展示の感想を書ききれないので、次回に続く・・・・)

共同幻想の力:熊本城の復旧工事から

人類が他の生き物と最も異なる点は、集団に属する個体群が一つの「核」となる何かに共感し、それに基づいて同じ思考や行動をすることではないでしょうか。だから、ひとり一人は弱い人類が、今まで生き延びる事が出来た。

その「核」は宗教であれば神ですし、民族であれば歴史、企業であれば経営理念や創業の想いだったりするのでしょう。核の力が強いほど、そこから物語が生み出され、それが集団にものすごい力を与えます。

現在、ローマ教皇フランシスコが来日中ですが、教皇に拝謁する信者さんたちの姿を見ていてそう思います。しかし、この物語は悪用されると恐ろしいことになります。戦前の日本における天皇がそうだったのでしょう。

ところで、11/23(土)、熊本県民の「核」とも言えそうな、熊本城を訪れました。2016年4月16日の熊本地震で、熊本城は大きな被害を受けました。県民の落胆は想像に余りあります。私は地震前に何度も熊本城を訪れていますが、その重厚なお城が無残な姿となっており、心を痛めました。

かろうじて持ちこたえた宇土櫓。手前の続櫓は崩壊。

私が訪れた日は、復興の節目の日でした。熊本城のシンボルともいえる天守閣には、大天守と小天守があります。どちらも大きな被害を受け、それぞれの屋根のしゃちほこも崩落しました。しかし、いち早く復旧を進め、小天守西側のしゃちほこを除く3体は既に設置が完了していました。

大型クレーンでしゃちほこを小天守に設置する。

残された最後のしゃちほこの設置が、11/23だったのです。私はたまたまその場面に居合わせました。幸い設置直前のしゃちほこを間近で拝み、触ることもできました。

沢山の人々がその設置セレモニーに参加し、嬉しそうにその設置プロセスを見届けている姿は、とても印象的でした。しゃちほこの設置が完了し、小天守の上でその完了を告げる作業員は、「おかえり しゃちほこ」と書かれた垂れ幕を下した瞬間は、感動的ですらありました。

設置完了の合図を受けて、多くの風船がはなたれ、垂れ幕も落とされた。

完全復旧には、まだ20年以上かかるそうです。崩れた石垣の石を、一つひとつもとあった場所に正確に戻すなど、復旧工事の難しさも想像に余りあります。熊本市はその復旧プロセスも、市民にできるだけ公開しているそうです。

大天守と小天守

熊本県民の「核」である熊本城が少しずつ完成に近づいていく姿を、多くの県民が同時に見守ることで、巨大な求心力が生まれ人びとに勇気を与えるとすれば、「災い転じて福となす」の言葉通り、市民や県民にとって素晴らしい「ギフト」かもしれません。

そのセレモニー会場には、多くの外国人観光客も来ていましたが、彼らにはそこに集まった市民の気持ちを共有すること困難でしょう。お城の修復工事を大々的にやっているのを見て、なんでそんなに喜んでいるのかと疑問に思ったとしても不思議ではありません。核から生まれた物語を共有しない人びとに、共感を期待することは無理です。(私自身も本当の意味では、共感できていないと思います)

物理的存在である熊本城も、市民にとっては単なるモノではない。そこには、ひとり一人異なる物語が存在するはずです。つまりは、モノではなく概念や幻想ともいえるでしょう。みなが共感できる共同幻想が、人類をここまで生存させ進化させてきた。強く共感できる共同幻想を持てることは、とても幸せなことだと思います。間違った使い方さえ、されなければ。

建築家との仕事から

ちょうど二年前から、建築家と仕事をしています。厳密にいうと、仕事をしているのは相手の方で、私は施主の立場で「建築プロジェクト」に参加しているわけです。

こういう経験は二度目ですが、前回と違って自分が住む建物の設計を依頼したのではなく、事業用つまり賃貸住宅の設計依頼なので、だいぶ私の意識も異なります。

自家用であれば、うまくいかなかったとしても、自分が我慢すればいいだけのことですが、事業用となるとそうはいきません。うまくいかなければ、賃料が入らず借金の返済ができず、最悪自己破産なんてことにもなりかねません。

従って、前回以上に「口を出す」ことになり、建築家とのコミュニケーションの頻度も格段に多くなります。そんな中、建築家という仕事のすごさ、大変さなども見えてきます。

建築家とは、様々な制約のもとで、クライアント(施主)の願望にできるだけ沿う建物空間を設計し、最終的にモノとして完成させる役割です。制約にも、物理的(土地面積、立地等)、制度的(規制等)、時間的(工期等)、金銭的(予算等)、環境的(近隣、気候等)、技術的(工法等)など、様々な要素があります。それは膨大な変数とも言えます。

また、クライアントの願望に沿うと一口で言っても、容易ではありません。まずクライアント自身が願望を描けていなかったり、描けていたとしても言語化でききなかったり、途中で願望が変わったりするからです。

例えば、建築家が「A」を示し「エー」のつもりで伝えたとしても、クライアントは「ア」だと思っているかもしれません。そうならないように、共通言語でコミュニケーションを図り、最終的にそれら願望を掬い取ってモノに落とし込む責任を負うわけですから大変です。

さらには、実際にモノを造り上げるのは建築家ではなく施工会社ですから、施工会社の力量を十分把握した上で、建築家のつくりあげたイメージを正しく伝え、実行してもらわなければなりません。施工会社だけでなく、水道業者、電気業者、電力会社、お役所など、様々な関係者との関わりも出てきます。そういった監理も担います。

アーチストは自分でイメージを創り、かつそれを自分で形にして表現するわけですが、建築家は他者(クライアント)の願望をもとにイメージを創り、それを他者(主に施工会社)にモノとして完成してもらうのですから、はるかに難易度が高いと言えるかもしれません。

建築家はこうした複雑なプロジェクトの推進役、つまりプロジェクト・マネジャーでもあるのです。

さて、次に建築家が創造したイメージを、現実化する過程を見てみましょう。

仮に建築家の頭の中で、様々な制約をクリアし、かつクライアントの願望も満たす素晴らしいイメージが浮かんだとします。建築家は、それを「外化」、つまり何らかの形式で表現しなければなりません。まず2次元のドローイングかもしれません。次に、それを3次元の模型(「フィジカル・モデル」)を作りあげるでしょう。そして、試行錯誤でそれらを行き来することでしょう。そうして、実際の建物のイメージが固まっていき、図面(≒楽譜)に落としこまれる。

重要なのは、この試行錯誤プロセスです。このプロセスには、標準的な方法論などないでしょう。そこでは、数多くの変数を考慮しなければなりませんから。しかし、建築家はそれまでの経験の中で、自分なりの方法論(「プロセス・モデル」)持っているのだと思います。ただ、これは暗黙知に近く、なかなか形式化できない。しかし、近年はデジタル化が進み、数値データに置き換えた情報を加工することで、「プロセス・モデル」を形式化し表現できるようになっているようです。

そうなると、コンピューター上でより高次元のヴァーチャルな「模型」が作成できるようになります。その「フォーム・モデル」を駆使して、様々なシミュレーションも可能になる。そのフィードバックを受けて、「プロセス・モデル」も修正を繰り返す。

「フォーム・モデル」を使うことで、建築中の現場との情報の相互フィードバックが可能となり、リアルな建物の完成度さらに高まっていく。建築家は、こんな複雑なことを行っているのです。

たまたま先日、建築家の豊田啓介氏の講演を聴く機会がありました。そこで語られていた以下のコンセプトが、この二年間の建築家との関わりで何となく感じてきたことが簡単に表現されていると感じ、私の言葉で語ってみました。

https://noizarchitects.com/archives/works/diagram ttps://noizarchitects.com/office

しかし、この一連のプロセスは建築の世界だけでなく、他者とのインタラクションを通じてアウトプットを創りあげる、どんな方にも共通する基盤のようなものだと感じます。

今後は豊田氏の言う、Physical WorldとDigital Worldの境界=Common groundにこそ、大きな付加価値があるのだと思います。

ベルリンの壁崩壊から30年に想う

先週の土曜(11/9)は、ベルリンの壁崩壊から30年にあたりました。ちょうど、当時ソ連の共産党書記長だったゴルバチョフ氏の評伝「ゴルバチョフ 人生と時代」上・下(ウィルアム・トーブマン著)を読んでいたこともあり、感慨深いものがありました。

その年、1989年6月4日には、天安門事件もありました。あの有名な映像、向かってくる戦車隊列の前で、ひとり素手で立ちはだかった青年を映したニュース映像をみた時の衝撃は今でも忘れません。

あの事件の数日後だったと思いますが、私はスウェーデンに向かいました。当時学んでいた慶応ビジネススクールの国際プログラムで、スウェーデンのStockholm school of economics(日本ではストックホルム商科大学と呼ばれることが多いようです)へ短期の交換留学をすることになったからです。

その大学には、7月~12月の約半年、世界中のビジネススクールからの留学生とスウェーデンの学生が一緒に国際経営を学ぶ、Institute of international businessというプログラムがあり、そこに参加したのです。当時、アジアからの参加は慶応だけでした。

さて、そのプログラムには、授業以外にも様々イベントが学生によって用意されており、そのうちの一つが私も参加したソ連訪問ツアーでした。20~30人くらいの集団だったでしょうか。10月半ば、ストックホルムの港から客船でフィンランドのヘルシンキへ移動。そして、そこから列車でまずレニングラード(現サンクトペテルブルグ)へ。

夜遅く、ソ連との国境を超えた辺りで、大きなソ連兵が乗り込んできて、小さな駅にいったん降ろされました。多分パスポートチェックか車両交換などがあったのでしょう。駅構内で、初めてソ連の普通の人びとを見かけましたが、衝撃的でした。のそりのそりと薄暗い駅構内を歩く人びとの服装がぼろぼろで、まるで映画や芝居に出てくる帝政ロシア時代の農奴の姿そっくりだったからです。タイムスリップして100年前のロシアに移動したかと思うほどでした。

レニングラードに到着し、エルミタージュ美術館に連れていってもらいました。玄関には入場を待つ長い列ができていましたが、我々は反対の入り口から待たずに入れました。きっと外国人枠があったのでしょう、ちょっと申し訳ない感じ。玄関ホールでは、荷物を預かるおばさんがおり、元気にテキパキと作業していました。共産主義の国でも、こんな働きものがいるのだと妙に感心したことを覚えています。短時間だったこともあり、残念ながら、美術館の中のことはあまり覚えていません。

そして、モスクワに到着。モスクワでは、現地の女子学生がガイドとして我々学生をサポートしてくれました。街の裏通りには、ドルとルーブルを交換する闇屋がたくさんいました。正規交換レートの10倍くらいだったと記憶しています。でも、警察に見つかると逮捕されると彼女に注意されていたので、怖くて交換できませんでした。

この小旅行の最大のイベントは、モスクワのビジネス・スクール(らしきもの)の学生との交流です。共産主義国家なのでビジネス・スクールはあるはずもなく、今思えば共産党の幹部候補青年たち向け教育機関の学生たちだったのでしょう。ガイドの女性もそこの学生でした。

学校のような建物に入り、我々学生は、出身国ごとのグループに分けられ座りました。それぞれのグループに、ソ連の学生が付きます。そして、グループごとに対話が始まりました。面白いことに、グループごとにその国の言語がつかわれました。私の相手も、とても流暢な日本語で話します。外人っぽいアクセントがほとんどないので、「日本に住んでいたことがあるのか?」と質問すると、「行ったこともない」との返事。驚きました。そして、ちょっとだけ怖くなりました。こうしてKGBのスパイが養成されているのかと、想像してしまったからです。一方、どんな話をしたのかは覚えていません。後で、他の国からの学生に聞いてみましたが、やはり皆言葉の流暢さに驚いたとのこと。

ガイド学生の引率で、モスクワ市内観光も楽しみました。赤の広場のグム百貨店はモスクワ一の百貨店と聞いていましたが、ショーケースにあまりにモノがなく驚くばかり。また、モスクワで人気のおしゃれなアイスクリーム屋さんにも行きました、お店は普通でしたがトイレに入ってびっくり。トイレの中蓋(座る部分)が取り外されているのか、なかったのです。一見小奇麗なお店とのギャップが大きかった。レーニン廟にも入り、蝋人形のような遺体を拝みましたが、なぜこうまでして公開しているのか理解できませんでした。また、道端に机を並べ、そこでソ連軍の立派な制帽や制服などを売っている所を、何ヵ所かみかけました。

当時、ソ連はペレストロイカの真っ最中で、ゴルバチョフ書記長は日本や欧米でとても人気がありましたので、当然ソ連国内でもヒーローのような存在だと、私は勝手に思っていました。ゴルバチョフのおかげで、自由が得られつつあるのだから。ある時、ガイドの女子学生にそんな話をしてみると、意外なことに浮かぬ顔をしています。あまりはっきりは言わないものの、モスクワではあまり人気がないようでした。西側で報道されていた華やかで親しみのあるゴルバチョフ(ゴルビーとの愛称で呼ばれることも多かった)のイメージとは、大きなギャップを感じ不思議でした。

ストックホルムに戻ってしばらくした11月9日、ベルリンの壁が崩壊したことを知りました。ほんの数日前に、壁の向こうのソ連にいたのですから、とても不思議な感覚でした。ただ、それほど驚くようなことではなかったと記憶しています。ゴルバチョフによるペレストロイカが進んでいた首都モスクワの中心部でさえ、あれだけ物不足で荒んでいるのだから、他は推してしるべし。維持できるはずはないと感じたのでしょう。

帰国後の翌1990年3月にソ連は複数政党制に移行し、ゴルバチョフは大統領に就任。その年、一気にドイツ統一し、ノーベル平和賞受賞。しかし、1991年8月クーデター、そして12月のソ連崩壊へと続きます。

「ゴルバチョフ 人生と時代」(ウィルアム・トーブマン著)を11/9に読了し、モスクワの女子学生が言っていたことが、やっと理解できました。巨大なソ連という組織の変革に着手したゴルバチョフは、それゆえジレンマに苦しんでいたのです。改革に反対する保守派からは、当然の如く強い抵抗があり彼らを懐柔することも必要です。一方、当初ゴルバチョフを支持していた改革派も、そのスピード感のなさに徐々に見限られていきます。両者の狭間でバランスを取りながらの改革を目指していたゴルバチョフは、結果的に両者から疎んじられる結果となったのです。既存組織のリーダーが自ら変革を推進することは、想像以上に難しい。自分の行動が自分の首を絞めるのですから。

血を流すことを極端に嫌ったゴルバチョフは、狙い通り最終的に血を流さずに共産主義国家から民主主義国家に移行を進めたと言えます。ただ、現在のロシアは、ゴルバチョフが思い描いた姿とは大きくズレてしまった。現在88才の彼は、どんな想いなんでしょうか?

ベルリンの壁は1961年から1989年まで、28年間存在しました。そして崩壊から同じく28年後の2017年、アメリカにトランプ大統領が誕生。その前年には、イギリスが国民投票でEU離脱決定。1989年という年は、間違いなく歴史の折り返し点でしたが、また一巡して壁が存在する世界に戻りつつあるような気がしてなりません。

30年前にみたソ連の風景が、懐かしさだけでない感情を伴って思い出されます。