意識と身体

意識とは、やっかいなものいです。意識しなければ集中できない気もしますし、意識するとうまくいかなくなることもあります。

普段、意識しなくても呼吸できますし、左右交互に足を出し歩くこともできます。私は、お風呂場で洗髪する際、よくシャンプーの後でコンディショナーを使ったかどうか迷ってしまうことがあります。無意識の作業になっているため、記憶に留まらないのです。意識と身体の関係は、とても密接なようなで密接でないような、不思議な関係です。

私が意識と身体の関係について関心を持つようになったのは、お仕舞を初めてからですので、もう5年以上になります。お仕舞は、謡に合わせて決められた型を基本にして舞うもの。時間は2分から長くて4分くらいなので、長くはありません。型もいくつかのパターンがあり、それの組み合わせなので、それほど覚えることは多くありません。

謡の詞章(ことば)に合わせて型を繰り出すので、それが難しいといえば難しいですが、動き自体は簡単に覚えることができます。

それでも発表会などで舞台に立つと、思うようにできません。毎回、悔しい思いをします。なんで稽古のようにできないのか?これまで稽古では一度も間違えたことがない箇所を、なぜ本番で間違えるのか?その繰り返しです。

そこには意識と身体の関係がきっとかかわっている、との直感がありました。だから、意識、脳、心理、身体、感情などに関する本を読み漁りました。

そうして、だんだんわかってきました。人間の身体の多くは無意識によって作用している。意識のレベルで自分のものにしてもダメで、無意識のレベルで動けるようにならなければ自分のものとは言えない。たとえそれに到達できたとしても、ふとしたことで意識が介入してくる。そうなると無意識のレベルが混乱してしまい、思うようなパフォーマンスができない。

本番の舞台の上で頭が真っ白になったことがあります。それは、もともと無意識下にあった状態(真っ白)に意識が介入して、もともと「真っ白」だったものを、「真っ白だ」と発見してしまったことで、「真っ白」という認識が顕在化してしまい、身体の動きが「止まって」しまうというプロセスだったと思います。

そうしたことを認識しつつ、今年も先日発表会がありました。私は、できるだけ意識しないことを心掛けました。また、何かに一つに集中するのではなく、「文脈」を支配しようと「意識」しました。自分なりに稽古を積み、詞章と型の関係も身体に染み付いた感覚もありました。

そして本番。私の直前の出番の方は素謡だったので約25分も舞台にいます。私はその間、楽屋に控えていました。25分は長いです。そこで、人のいない和室で、頭の中で謡いながら仕舞を通して舞ってみました。動きの最終確認です。

その時、来てしまいました。普段は何の疑問も抱かずに流れていく動きの一部が、わからなくなってしまいました。「あれ、どうだっけ?」周りには誰もいません。少し焦りましたが、もう一回やれば体が勝手に動くだろうと信じ、再度挑戦。しかし、そこにはもう意識が介入してきており、それを振り払うことはできません。焦りが焦りをよぶ。心と身体が分離してしまったかのようです。子供の頃、野球のホームベースを見て、なぜかあの独特の五角形がホームベースに見えず困ったことがあります。ホームベースだとわかっているにもかかわらず。それと似た感覚。

そして、私の出番。切戸口から身をかがめ舞台で出る。後ろに座る3人の地謡の真ん中の先生(観世喜正師)の姿を確かめ、その前(大小前)に片膝で座り構え、一呼吸置いて謡いだしました。

「和光利物の御姿~」

大きな声を出すように指導されていたので、思いっきり大きな声で謡ました。しかし、なぜかその時に限って、最後まで息が続かない。「すがた~」が絞り出すよう感じになってしまった。「おかしい。」少し不安が芽生えます。そのシテ謡の後、立ち上がる。

何とか舞を続け、やがて問題の箇所に。勝手に体が動いてくれることを期待しましたが、そうはいかず。やはり出てこない。とっさに誤魔化して次の動きに移りました。

その動揺が後を引いたと思います。その後も、万全とは言えませんでした。ただ、言えるのは、以前だったらこういう状態に陥ってしまうと、もっと動揺してしまい、真っ白になってしまいましたが、今回はそこまでの動揺ではなかったことです。失敗を予測し、それに慣れたともいえるのかも。

仕舞を終え、橋掛かりを歩み幕へ向かう数秒の間、悔しさとダメージが以前より少ないことへの安堵感とが入交じりました。もちろん悔しさのほうが大きいですが。

こうして、心と身体の統一、あるいは整合を、今年も果たすことができませんでした。しかし、次回こそはリベンジ、とのエネルギーは湧いてきました。

こうして毎回、終演後の懇親会に悔しさを持って向かい、そこで発散するのです。(今年はコロナで抑え気味でしたが)

GO TO トラベルキャンペーン??

昨日、GO TO トラベルキャンペーンを東京発着を除外した上で、全国で7月22日から実施することが決まりました。

東京発で感染が全国に広がる中、前倒し実施(もとは8月1日実施だった)することへの反論が高まりつつのに慌てて、折衷案的に東京除外が決まったかのようです。

給付金10万円騒動、検察官定年制変更騒動に続いて、またかという印象です。

旅行業界が窮地に立っており、救済策が必要ということは理解できます。しかし、その打ち手として、このタイミングでの旅行者への費用補助が適切なのでしょうか?

そもそもGO TO キャンペーンを企画した官僚は、こう考えたのに違いありません。

・旅行費用を補填すれば、喜んで国民は旅行に出かけるだろう

・旅行業界は、喜んでそうした旅行者を受け入れるだろう

こう考えるには、以下のような隠れた前提があります。

1)国民は損得を基準に判断して行動する。だから補助すれば動く

2)感染対策の徹底を条件にすれば、国民は従順に従う

3)国民は政府からの補助がなければ自粛して旅行しないだろうから、費用補助の費用対効果は高い

4)仮に旅行によって感染が広がったとしても、その経済的損失よりも観光業界を救済する経済的メリットの方が大きい

この仮説は、果たして正しいでしょうか?私にはそうは思えません。

1)人間は損得以外の理由で行動します。例えば、現在の感染状況では、多くの都民は(仮にキャンペーンから除外されなかったとしても)自分が地方にコロナ感染を広める可能性があると思い、たとえ費用補助があっても旅行を止まるでしょう。「そんなカネに釣られて地方に旅行するような軽薄な人間ではない」と思いたいはずです。すでに、軽井沢などの観光地では、いったん入った都内からの予約は軒並みキャンセルされているそうです。結局、そうは思わず喜んで旅行するのは、「夜の街」で感染を広げるような倫理観の持ち主ばかりになり、感染リスクは高まるばかりでしょう。これは東京に限ったことではありません。

2)政府から、「もう旅行に出かけても大丈夫ですよ」とのいわばお墨付きを得た人々が、感染対策を徹底するでしょうか?迎える側の旅行業界は対策を必死で徹底するでしょうが、徒労に終わるリスクは高いと思います。

3)人々は自粛生活に飽き飽きしています。もし感染がおさまれば、政府からの補助がなくても喜んで旅行に出かけるでしょう。リベンジ消費が実際に起きたように。したがって、この施策の費用対効果は著しく低いと言えるでしょう。

4)先にも書きましたが人々は、政府が旅行を推奨するということは、コロナ感染に対する個人の行動規制はもうあまり必要ないだろうとのメッセージだと受け止めます。観光業界救済の意図があるとはいえ、旅行する人々にとってはどうでもいいこと。緩和メッセージだけが一人歩きし、その結果無防備な旅行者が感染したり広げたりすれば、非難を受けるのは感染者を出してしまった旅行業界になるでしょう。そのダメージは致命的になりかねません。旅行業界にとっては、短期的な旅行者増の経済的メリットよりも、遥かに大きな損失の可能性が想像できます。クラスターを出したホテルだと知られれば、その後数年間もお客から避けられるかも知れません。また、ある温泉地の旅館が感染者を出せば、同じ温泉地の感染者を出さなかった他の旅館にも被害が及ぶかも知れません。

合理的な経営者であれば、GO TO キャンペーンに両手を挙げて賛成することはできないのではないでしょうか。

もし目先の売り上げがなければすぐに倒産してしまうという旅行業界の企業があれば、そこに補助金を出した方が、税金の使い方としてはキャンペーンよりも費用対効果は高いと思います。

ひとの心に対する想像力が弱い官僚や政治家に、コロナ禍という未曾有の危機のもとでの舵取りを委ねざるを得ない日本。そこが最大の悲劇なのかもしれません。

*速報によると、本日の都内の新規感染者数は、過去最高の293名だそうです。

「情動はこうしてつくられる」を読んで

2007年に「定量分析 実践講座」という本を書きましたが、その中で意思決定の三要素として、合理性と感情と価値観を挙げました。どれも大事だが、本書は合理性に絞って意思決定を学びましょうというものでした。

その後、月日が経つにしたがって、合理性よりも感情や価値観の方が遥かに大きな影響力を持っていると感じるようになりました。齢を重ねるというのは、そういうことなのでしょう。

意思決定とは、情報処理でいえば最終工程です。そこで使われる合理性とは、極論すれば誰もが同じ判断に至るためのツール。最終工程では、他者とは差がつかないということになる。

現実は異なり、差はつきます。なぜか?それは意思決定という認知活動の、前工程である「知覚」活動に差がつくからです。知覚とは、眼や耳といった外部からの感覚刺激を脳で統合して「意味」をつくることです。統合する際は、外部刺激の他、内面からの刺激、すなわち経験や知識といった記憶も合流します。脳は、内外の区別をつけることはなく、同じ種類の情報として扱います。

つまり、流入する情報が仮に同じだったとしても、受け入れる人によって全く異なる意味をつくりあげても不思議ではないのです。(いかに目撃証言がいい加減か!)

このような知覚のプロセスにおいて、情動(感情)が大きな影響を及ぼすことは安易に想像できます。では、情動はどのようにして生まれるのか?

かつては、脳には各情動に反応する部分があり、外部刺激がそこに到達し反応、その情動が生まれると考えられてきました。人間を機械に見立てると、そう考えたくなります。しかし、近年の脳科学の発達で、そうではないことがわかっています。

「情動はこうしてつくられる」から、以下に私なりの理解を書きたいと思います。

情動の前段階で、「気分」がつくられます。気分とは、無意識に身体が行う調整機能によって形成されます。人は無意識に呼吸をしますし、緊張したりもします。こうした無意識反応は、刺激に対して人が生命を効率的に維持するために、勝手に体が作用するものです。こうした無意識の作用を「内受容ネットワーク」が司ります。こうした体の反応の結果生まれるのが「気分」です。気分は、快・不快と覚醒・未覚醒の2軸で整理できます。例えば、不快で未覚醒は、無気力や落ち込んだ気分となります。コロナ禍で外出できず、天気も悪かったりするとそんな気分にもなります。

さて、そうした気分が情動に影響を与えます。気分を受け取った脳は、勝手にその原因を探ります。さまざま可能性が芽生えます。コーヒーを飲み過ぎた、嫌な奴から電話がかかってきたなどなど。思いつく原因もさまざまに分類できますが、分類するにはそのための概念が不可欠。その概念がなければ、分類もできずそれを説明する情動も生まれない。そうした概念とは、過去の経験によってつくられたものです。

こうして現在の状況、文脈にとって最も可能性の高そうな概念基づき情動が選ばれ、つくられます。(ここで作用するのが「コントロールネットワーク」)つまり、情動は脳がつくりあげた意味なのです。つくりあげた意味に基づき、ヒトは行動し、意思決定もするのです。

こうしたことがわかれば、意思決定の質を上げには、まず知覚の質を上げることが重要だとわかります。そのためには、

 ・気分を整える

 ・さまざまな情動概念を持っておく

 ・さまざまな経験を積んでおく

といったことが役立ちそうです。

ただそれ以上に、上記のメカニズムを理解しておくことで、自分の現在の情動を客観的に認識することを習慣づけることが大切だと思います。なんで今、自分はこんなにイライラしているのか、そんな気分を招く刺激はどこから来ているのか?この悲しみは、どんな刺激や経験、過去の記憶から生まれ出ているのか?なぜコントロールネットワークは「悲しみ」を選択したのか?

こうした思考を常に持つことです。

意味の生成(情動も含む)とは、与えられた情報を超えるものです。超えたところに人間性の違いが出る。だから人間は面白いともいえるのではないでしょうか。