映画「パターソン」を観て:日常の大切さ

日常の生活に少しずつ戻りつつありますが、自粛下の下で日常の生活のありがたみがしみじみ感じられたように思います。日常とは同じ事の繰り返しで、退屈なものだと思いがちでしたが、必ずしもそうではないかもしれない。

そんなことを漠然と考えていたタイミングで、まさにぴったりの映画を先週金曜日の夜、やっと再開したアップリンク吉祥寺で観ました。2017年封切りの「パターソン」です。

ジム・ジャームッシュ監督らしい、日常を綴った小津安二郎のような作品です。パターソンという街でバスの運転手を務めるパターソン(街と同じ名称)という男性が主人公です。パターソンは毎朝、6時15分前後に目覚ましなしで目を覚まします。隣で寝る妻ローラにキスして起きあがり、一人でオートミールらしきものを食べ、出勤します。家の前のポストが傾いてないことを確認して。

そして、必ず毎日定時に仕事を終え帰宅。ポストから郵便物を取り出し、なぜか傾いている柱をまっすぐに直してから家へ。(実は毎朝パターソンが出かけた直後、飼い犬マーヴィンがわざわざ柱を倒している。後の展開の伏線でもあります)夕食後、マーヴィンを散歩に連れていきます。ただ、目的は途中で必ず寄るバーのようです。マーヴィンを店の外につなぎ、カウンターでビールを一杯だけ飲み、帰宅しまた寝る。毎日がこの繰り返し。

パターソンがひとつだけ他の人と違うのは、毎日詩を書くことです。 出発前の運転席やランチを取る公園のベンチ、そして家の地下のガレージ端の小部屋で、小さな少々みすぼらしいノートに小さな字で詩を書き連ねていく。静かな日常を描いた、とても穏やかな詩。この映画は、こうした詩を映画で表現したかのようです。

ローラもそれらの詩が気に入っており、どこかに発表することをしつこく勧めます。でもパターソンはその気がありません。自信がないとかではなく、必要を感じないのです。夫婦の性格は正反対。外交的でチャレンジが好きなローラと、内省的で変化を嫌うパターソン。でも、とても相性が良いのです。

こんな特に大きな変化がない日常ですが、少しずつアクセントとなる出来事があります。それがさりげなく描かれているのがこの映画の素晴らしさです。

虫も殺さないようなパターソンですが、かつて海兵隊におり、そこで車輛に関わる危険な任務に就いていたことが、微かに暗示されます。それによってパターソンの人間像に厚みを加えています。

ある朝、目覚めてローラにキスしたとき、彼女は見ていた夢について語ります。「二人の間に、双子の赤ちゃんが生まれた」と。パターソンはその日から毎日のように双子を街で見かけます。まるで、パターソンに会うよう誰かが仕掛けたかのように。パターソンは無意識のうちに、ローラの発した「双子」を探してしまうのかもしれません。それに気付いたパターソンは、どう感じているのでしょうか?

適度な距離感を保ちつつも、毎日のように接する愛すべきユニークな人びととのさりげない会話。ときに事件らしきことも起きますが、パターソンは何となくうまく対応していきます。「対応」というよりも「始末」の方がピッタリかもしれません。

ある日、ローラは詩の発表はしなくても、せめて詩のノートをコピーしておくことをお願いします。パターソンもしぶしぶ頷き、週末にコピーを取ることを約束します。その週末、ローラは朝から出かけ、自作のカップケーキを初めて出店したマーケットで販売しました。パターソンは詩作に熱中してコピーは取らなかった。

ケーキが完売して大喜びで帰宅したローラと、お祝いの食事と映画館(ゾンビ映画)に出かけます。こうした嬉しいアクセントも、パターソンは大事にしているのです。ただ、詩のノートをうっかりソファに置いたまま・・・。マーヴィンは散歩に連れってもらえず不満そう。

楽しい時間を過ごした二人を待っていたのは、ソファの周囲でこなごなに喰いちぎられたたくさんの紙片。ローラは御仕置としてマーヴィンを地下のガレージに閉じ込めますが、パターソンは出してあげます。しかし、パターソンは落ち込む。観客は、「だからローラがコピーしおいてと言ったじゃないか」と誰もが思うことでしょう。でもローラはそんことは言いません。優しく慰めるだけ。

パターソンにとって詩は発表するためのものではないので、ノートが消滅してもいいではないかとも考えられなくもない。また書けばいいじゃないか、と。でも、彼にとって書き溜めてきた詩は、自分自身にとっての生活そのもの、生きている証だったのかもしれません。それ程落ち込んでしまいます。この映画で一番の事件。

気を紛らわすために散歩に出たパターソンは、滝の見えるベンチで座り込む。そこに永瀬正敏扮する、よれたスーツを着た日本人中年男性が隣に座っていいかと話しかけ座ります。その日本人は、パターソン出身の詩人の詩集(日本語)を手にここまでやってきたのです。パターソン自身も大好きな郷土の詩人。その日本人も詩作をするのだと言い、二人はここパターソンに関係する詩人について言葉を交わします。日本人は、お礼にノートをパターソンに渡し去っていきます。見慣れない(多分日本製)綺麗なノート。パターソンはしげしげとそのノートを眺め、少し明るい表情へ変わっていったように感じました。

永瀬は少ししか登場しませんが、とても重要な役どころです。異国からわざわざ詩に導かれてパターソンまで来た日本人がいる。別にパターソンを勇気づけるとか詩作を促すわけではないのに、パターソンに再び詩を書く気持ちを奮い起こさせる。永瀬は立派にその難しい役割を果たしたと思います。

この作品で描かれているのは、何の変哲もない日常の大切さ。そして、再び立ち上がる小さな勇気です。緊急事態がずっと続いたからこそ、この作品が心に沁みたとも思えますが、もしかしたらそれだけではないのかもしれません。

「日常」に対置するのは「非日常」ですが、それにも2種類があると思います。コロナ禍による緊急事態や戦時のような本当の「非日常」と、もう一つはビジネスやスポーツなどで競争に勝ち成功を収めるような、いわゆる「セレブ」的な非日常、非凡さと言ってもいいかもしれません。パターソンは前者の非日常を知っているから、現在の「日常」にこだわっているのでは、と妄想してしまいます。一方のローラは後者の非日常に憧れながらも、日常をも楽しんでいる。

ここで描かれた日常の意味は普遍的であり、国もタイミングも関係ありません。ただ、観る人の経験の深さを選ぶかもしれません。小津映画のように。

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