意味づけと環世界

新型コロナウィルスの猛威は、まだ収まる気配はありません。中国武漢から広がったこのウイルスは、世界中に拡大し、人びとの世界観をも変えるかもしれません。

ところで、マスク不足は理解できますが、トイレットペーパー不足は理屈では理解できません。1973円ごろのオイルショック時にも同じことが起きましたが、あの時もデマから始まったのだと記憶しています。今回も根拠のないデマが、人びとの恐怖心に火をつけ、以下のような連想を引き起こしたのかもしれません。

マスク不足で困る→生活必需品がなくなると困る→トイレットペーパーは必需品だ→トイレットペーパーがなくなるかもしれない(そういう書込みもある)→店頭にない→やっぱりトイレットペーパーは不足しているのだ→置いてある店を探してたくさん買いだめしよう→(ますます不足する)

人は防衛本能により被害方向の想像力は、とても豊かなようです。感情がそれを促し、理性で抑えることは困難です。上のような連想サイクルに入りこんだ人に、どれだけ識者がトイレットペーパーは不足していないと伝えても、TVでたくさん並べられたお店を映し出していても、自分の眼で実際の店頭で確かめるまでは連想は終わりません。一種のパニックです。

一度そこに入り込むと、周囲の世界は全てそう見えてしまいます。あらゆる入ってくる情報は、トイレットペーパー不足を肯定するものに見える。こうした人びとが集団になり相互作用し、ますますそう見える世界が強化されて、集団パニックに至る。

エストニア生まれの生物学者ヤーコブ・ユクスキュルは「環世界」という概念を提示しました。個々の生きものは、周りの事物に意味を与えてそれによって自分にとっての世界を構成している。この「自分にとっての世界」が「環世界」です。虫には虫の、猫には猫の環世界があり、そこで生きている。(猫にとって飼い主は、餌をくれる家具くらいに見えているのかも)

同じ人間なのだから同じ世界を見て暮らしていると思うこと自体に無理があるのだと、「環世界」の概念は教えてくれます。環世界を形成する根拠となる「意味づけ」は、人によって大きく異なるからです。

私の環世界とは、私が入手した情報を、私が解釈し、私が意味づけしたものから構成されています。当然、人によって情報も解釈も意味づけもさまざまになります。同じTV番組のコメンテーターの解説を聞いても、それをどう解釈し意味づけるかはばらばら。

情報は客観的な事実にしか過ぎません。それに意味づけするのが人間の認知作業です。情報にはさまざまな解釈が可能であり、何らかのフィルターを通して自分にとっての解釈をを選択します。そのフィルターとは、過去と現在、未来から来ます。過去とは、経験や思い込み、常識、実績などです。現在とは、今の状況、今の感情、今の関心など。そして未来とは、願望や悪い予想など。また、価値観や性向も強力なフィルターです。あるいは、フィルターを選択する役割かもしれません。

こうしたたくさんのフィルターが、情報にひとつの解釈を与えます。例えば、マスク不足とデマ情報は、「 震災の時にもスーパーからいろんな必需品がなくなった。 他にも不足するものがあると大変だ。それは何だろう?トイレットペーパーかも」というような「次の不足物探しとその解答」へのきっかけとして 解釈されていく。

そしてその解釈は、当人のコンテクストに落とし込まれます。コンテクストとは、例えば「自分は家族が多いので、大量のトイレットペーパーが必要」、「家にはトイレットペーパーの取り置きはあまりない」、「今日しか朝からお店に並ぶことはできない」など、さまざまなその人の置かれた事情です。そうしたコンテクストに、解釈された情報が落としこまれることで、「今、トイレットペーパーを買いに走るべき」という意味になり、それが行動を促す。

こうした独自のたくさんの意味づけによって、各人ごとに環世界が形成されている。なまじ、他者も同じ環世界に生きているなどと思うから、多くのコンフリクトが発生するのかもしれません。自分のフィルターや環世界を意識しておくことも大切ですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です