プリコラージュと野村再生工場

野村監督が亡くなり、あらためて氏の凄さが評価されているようです。昨日の朝日新聞朝刊で「野村再生工場」という表現について、「再生工場」より「プリコラージュ」の方が適切だろうとのコメントが出ていました。(by岡田美智男 豊橋技術科学大教授)

再生から連想されるのは、壊れかけた部品に手を加え元の機能を取り戻すというニュアンスですが、野村監督がやったのは決して衰えた能力を元に戻したのではなく、衰えた部品なりの能力が発揮できる「場」を見極めて、そこで活用する方法に長けていたとの論です。確かに以前時速150kmで投げていた投手のスピードを、再度150Kmで投げられるように再生させたわけではありません。135kmでも勝てる場を見つけだし、そこに適応するための支援をしたに過ぎないのでしょう。

「プリコラージュ」は私も好きな言葉で、もともとはフランスの人類学者レヴィ=ストロースが「野生の思考」で用い、広く使われるようになりました。「必要な素材がなくても手近にあるもので間に合わせる能力」という意味で、「ありあわせを集めて問題解決する能力」とも解釈されます。

アポロ13号も致命的トラブルにみまわれる中、宇宙船内にある器材だけで何とか修復を成し遂げ帰還できました。それがプリコラージュの力。宇宙船内同様、昔はモノが不足しているので、そこにあるものを有効活用するしかなかった。 昔の職人は言うに及ばず、市井の人々もそうして暮らしていた。今でも、古くなって使えなくなったものや、包装紙やリボンなどを捨てられない人がいますが、いつかどこかで役に立つかもしれないというプリコラージュの精神が根付いているのでしょう。

しかし、資源が豊富に溢れる現代においては、やや時代遅れの感も否めません。ミニマルや断捨離の流行は、モノがあふているからこそ起こっているのです。プリコラージュの正反対です。

野村監督は、選手層が薄くプリコラージュで勝つしかなかった。いい選手がいなければトレードで獲得できる巨人とは違います。

しかし、考えてみれば日本企業も、これまでは全く同じでした。有能な即戦力社員を高給で中途採用することなどできませんでした。新卒で採用したプロパー社員で戦うしかなかった。だから、新卒採用には昔から力を入れていましたが、それでも採用時点で本当に有能なのかどうかはわからない。実際、いいと思って採用したものの、そうではなかったということもざらだったでしょう。確率の問題です。だから、有象無象の集団であるプロパー社員を何とかうまく活用するしかなかった。そのための知恵の集積が日本的経営でした。社内の頻繁な異動も、能力をより発揮できる場を見つけるための活動だったとも言えそうです。経営者は持ち駒で戦うしかなかったのです。

野村監督は、古き良き日本の企業組織を象徴していました。しかし、バブルの頃からかプリコラージュよりも資本を投入し即戦力を獲得する戦い方にシフトしていきました。変化の時代にはそれも必要でしょう。ひとつの組織の中で、プリコラージュと即戦力獲得をどう組み合わせていけるかが、日本企業の最大の課題といえるのではないでしょうか。

ただ、ひとつ言えるのは、日本人は伝統的にプリコラージュに長けているということです。そのことを忘れるべきではないでしょう。

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