想像力を正しくはたらかせる

新型コロナウイルスの脅威は増すばかりで、不安は日本中に広まっています。政府の対応は、不安を助長させる方向に進んでいるようで、疑念が絶えませんが、ここではそれには言及せず、私たち一人ひとりの問題について考えてみたいと思います。

一月初め武漢で新型ウイルスが広がっているとき、私たちそこに住む人々を心配しました。特に現地にいる日本人の不安な日々に共感を寄せ、チャーター機を送ることを支持しました。また、感染者の出たクルーズ船が横浜に寄港する際も、そこにいる乗客乗員、特に多くの日本人乗客に思いを馳せ、英国船籍であるにも関わらず横浜への寄港を支持したと思います。

しかし、これらは私たちにとって直接的な影響を、あまり想像せずにすむ事態だったからかもしれません。

チャーター機で帰国した人々やその家族、あるいはクルーズ船の防疫や患者の治療に当たった医師らに対して、差別的行動を示す周囲の人々がいることが報じられています。少しでも身近で自分たちに悪い影響が出そうな事態になると、思いっきり想像力をはたらかせて、自分たちの身を守ることを考え、影響源に対して排除しにかかります。関東大震災の時の朝鮮人への暴力は、その典型です。

被害者としての想像力は発揮されるものの、自分が加害者になる可能性についての想像力は極端に乏しい。クルーズ船から、陰性と認定された乗客は下船しました。多くの方々は、公共交通機関を使って帰宅したそうです。検査時点で陰性でも、あの状況ですから感染している可能性に怯えながら下船した乗客も多かったに違いありません。つまり、他人にウイルスをうつしてしまう可能性はあった。それを許した政府の判断は間違っていたと思いますが、最終判断は下船した乗客の判断です。

SARS流行の時も、感染を心配した風邪の症状の人が大勢病院に押しかけて病院がマヒしかけたこともあったそうです。自分が感染したかもしれないという被害者想像力は大いに発揮されるものの、病院で他の人たちに移してしまうこと想像した人がどれだけいたことでしょう。このように、身近な被害者想像力は豊かですが、身近な加害者想像力は乏しい。

また、時間的あるいは空間的に距離のある被害者想像力は乏しい、というか鈍感だと思います。武漢やクルーズ船といったまだ距離感のある「対岸の火事」には、共感を伴った関心を寄せるものの、これから自分たちに何が起こりうるかといった想像力はあまり発揮されない。

原発が爆発しても、放射能は目に見えないし無臭だから(感覚的に距離感があるともいえます)、身近な被害を想像しづらい。

こういった距離感のあるところへの想像力の乏しさは、被害者も加害者もどちらもですが、とても危険な事態をじわじわと引き起こすことがあり得ます。危険な事態への想像力がはたらかないので、それに対して人々の力を結集させることもできない。

政治の世界でも同じことが言えると思います。

ドイツのマルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。

 彼らが最初に社会主義者を襲ったとき、私は声をあげなかった
 私は社会主義者ではなかったから。

 彼らが労働組合員を襲ったとき、私は声をあげなかった
 私は組合員ではなかったから。

 彼らがユダヤ人を襲ったとき、私は声をあげなかった
 私はユダヤ人ではなかったから。

 彼らが私を襲ったとき、
 私のために声をあげてくれる人は一人も残っていなかった。

想像力を正しくはたらかせる知性を持ちたいものです。あるいは、自分にはそうした能力が乏しいことを自覚して、それに長けた人(例えば芸術家)の声に耳を積極的に耳を傾けたいと思います。

プリコラージュと野村再生工場

野村監督が亡くなり、あらためて氏の凄さが評価されているようです。昨日の朝日新聞朝刊で「野村再生工場」という表現について、「再生工場」より「プリコラージュ」の方が適切だろうとのコメントが出ていました。(by岡田美智男 豊橋技術科学大教授)

再生から連想されるのは、壊れかけた部品に手を加え元の機能を取り戻すというニュアンスですが、野村監督がやったのは決して衰えた能力を元に戻したのではなく、衰えた部品なりの能力が発揮できる「場」を見極めて、そこで活用する方法に長けていたとの論です。確かに以前時速150kmで投げていた投手のスピードを、再度150Kmで投げられるように再生させたわけではありません。135kmでも勝てる場を見つけだし、そこに適応するための支援をしたに過ぎないのでしょう。

「プリコラージュ」は私も好きな言葉で、もともとはフランスの人類学者レヴィ=ストロースが「野生の思考」で用い、広く使われるようになりました。「必要な素材がなくても手近にあるもので間に合わせる能力」という意味で、「ありあわせを集めて問題解決する能力」とも解釈されます。

アポロ13号も致命的トラブルにみまわれる中、宇宙船内にある器材だけで何とか修復を成し遂げ帰還できました。それがプリコラージュの力。宇宙船内同様、昔はモノが不足しているので、そこにあるものを有効活用するしかなかった。 昔の職人は言うに及ばず、市井の人々もそうして暮らしていた。今でも、古くなって使えなくなったものや、包装紙やリボンなどを捨てられない人がいますが、いつかどこかで役に立つかもしれないというプリコラージュの精神が根付いているのでしょう。

しかし、資源が豊富に溢れる現代においては、やや時代遅れの感も否めません。ミニマルや断捨離の流行は、モノがあふているからこそ起こっているのです。プリコラージュの正反対です。

野村監督は、選手層が薄くプリコラージュで勝つしかなかった。いい選手がいなければトレードで獲得できる巨人とは違います。

しかし、考えてみれば日本企業も、これまでは全く同じでした。有能な即戦力社員を高給で中途採用することなどできませんでした。新卒で採用したプロパー社員で戦うしかなかった。だから、新卒採用には昔から力を入れていましたが、それでも採用時点で本当に有能なのかどうかはわからない。実際、いいと思って採用したものの、そうではなかったということもざらだったでしょう。確率の問題です。だから、有象無象の集団であるプロパー社員を何とかうまく活用するしかなかった。そのための知恵の集積が日本的経営でした。社内の頻繁な異動も、能力をより発揮できる場を見つけるための活動だったとも言えそうです。経営者は持ち駒で戦うしかなかったのです。

野村監督は、古き良き日本の企業組織を象徴していました。しかし、バブルの頃からかプリコラージュよりも資本を投入し即戦力を獲得する戦い方にシフトしていきました。変化の時代にはそれも必要でしょう。ひとつの組織の中で、プリコラージュと即戦力獲得をどう組み合わせていけるかが、日本企業の最大の課題といえるのではないでしょうか。

ただ、ひとつ言えるのは、日本人は伝統的にプリコラージュに長けているということです。そのことを忘れるべきではないでしょう。

「青木野枝 霧と鉄と山と」展を観て

青木さんの作品はとにかく大きくて重い。だから、都内の展覧会で観ることはなかなかできません。それが今、府中市美術館で開催されているので、昨日観にいきました。

さすがに美術館の室内で観ると迫力があります。これだけ大きな作品ですから、部分を運び込んで、展示会場で組み立て完成させるそうです。だから、完成作品には、会場の「場の力」のようなものが作用するらしい。

重たい鉄を切断し溶接して組み上げる作品は、身長をはるかに超える巨大な作品です。

これは霧島アートの森での展示風景ですが、府中にもきています。

鉄は重くて固くで鈍重だとイメージがありますが、青木さんの作品は、その凝り固まった思い込みをぶち壊してくれるほど、軽やかなのです。自分のイメージをぶち壊してくれることで、なんとも言えない爽快感を抱く自分を発見します。これがアートの力です。

下の作品は、大きな鉄の管をスライス、それを半分に切って半円形にした鉄骨を組み合わせてあります。その鉄骨に対して垂直に枝のように鉄が突き出ており、先端になんと卵が針金で固定されています。固い鉄と柔らかくて儚い卵の組合せに、意表を突かれます。得も言われぬ不思議な感覚。

untitled,1992
http://anomalytokyo.com/artist/noe-aoki/

他にも思い込みや常識を揺さぶる、面白い作品がたくさんあります。

以下の動画で、その一端でも味わってみて下さい。

思考すること

「思考力を鍛える」というフレーズほど、人材育成の世界でよく聞く言葉はないかもしれません。では、思考力ってなんでしょう?そう問われると、途端に答えに窮してしまうのが常。結局、それは突き詰めず、手法を学ぶことに終始してしまいがちです。

私自身も、それを突き詰めることを避けてきた気がします。たまたま手に取った本に、そのヒントがありました。「人は語り続けるとき、考えていない」です。

「考える」ことは、自分の想定とは異なる事態が起きたと認識した時に始まる。つまり、「驚き」を感じた時です。想定とは異なるため、何らかの対応を迫られる。普段あるはずのところに鍵がないとき、一瞬驚き考え始めるでしょう。思考開始です。

驚くとその直後に、「感情」も起こります。何で昨晩、あんなに酔っぱらってしまったのだろうという後悔だったり、妻が勝手に鍵を動かしたのではと疑い、小さな怒りが芽生える、など。もちろん喜びもあります。予期せぬプレゼントももらったときとか。感情とは、驚いた状況に対する自分の評価とも言えます。

予想外の事態に驚き、即座に感情が芽生え、同時に驚きを中和するように、すなわちそこで発生した問題を解決するために思考するのです。

感情とは反射的に起こるもの。考えて感情が芽生えるのではなく、過去の経験に基づき自動的に引っ張りだされるものといえそうです。一方の思考は、反射的ではなく一歩引いて、感情的反応以外の選択肢を探すこと。つまり、より良い自分に変わるための、主体的な行動です。

このように感情は思考のエネルギーとも言えますし、逆に思考を妨げるものにもなりえる。ところで、感情はそうそう持続するものではありません。従って、持続的な思考のエネルギーとなり得る感情とは、もっと強いものです。日本語のニュアンスでは「情念」です。情念はたやすく消えない感情なので、持続的な思考を促すことができる。つまり、思考は情念によって動機づけられる。

一般的に思考力が高いと言われる人は、決してあきらめずに考え続けることができる人です。情念がベースにあるので、知的にしつこい。

さてここからが本題。思考力は三つの側面から成るそうです。(リップマンによる)
1)批判的思考
ある考え方の真偽や妥当性の根拠を疑ってみる態度。情報や前例、慣習を鵜呑みにするのではなく、意識的にそれらの根拠を検討する。不確実性が高い世界において必要とされる、強い信念体系を構築することができる。

2)創造的思考
新しいものを生み出す思考であり、想像力を発揮し失敗を恐れず実験を繰り返す。発散思考ともいえます。批判的思考はその反対で、検証思考、収束思考です。

3)ケア的思考
ケアとは、配慮、気配り、世話するという意味です。思考する対象への気遣いであるとともに、思考の仕方への気遣いでもあります。

例えば、決して残業をしない部下がいたとします。上司としては驚き、怒りが芽生えるかもしれない。部下の態度を改めさせることが問題解決だとする。批判的思考であれば、部下に対してトクトクと論理的に説得に努めるでしょう。創造的思考であれば、部下に残業させる方法をあの手この手と考え繰り出すかもしれない。ケア的思考であれば、部下の気持ちを慮ってみて、自分がどういうアプローチをすれば部下の気持ちを理解し、そして変えることができるかを徹底的に考える。

三つのうちのどの思考が重要ということではなく、状況よってこれらを組み合わせることが必要です。しかし、これは非常にエネルギーのいることです。途中であきらめて、安易な道、すなわち他者の発言や過去の慣習、前提をそのまま受け入れることに逃避してしまいがち。だから、それに打ち勝つには驚きや情念をしつこく持ち続けなければならないのです。

「卓越した教師は生徒の心に火をつける」という言葉がありますが、火をつけるとは強い情念を芽生えさせるということなのだと思います。火さえつけば、後は自律的に思考を深めていけるのです。