ベルリンの壁崩壊から30年に想う

先週の土曜(11/9)は、ベルリンの壁崩壊から30年にあたりました。ちょうど、当時ソ連の共産党書記長だったゴルバチョフ氏の評伝「ゴルバチョフ 人生と時代」上・下(ウィルアム・トーブマン著)を読んでいたこともあり、感慨深いものがありました。

その年、1989年6月4日には、天安門事件もありました。あの有名な映像、向かってくる戦車隊列の前で、ひとり素手で立ちはだかった青年を映したニュース映像をみた時の衝撃は今でも忘れません。

あの事件の数日後だったと思いますが、私はスウェーデンに向かいました。当時学んでいた慶応ビジネススクールの国際プログラムで、スウェーデンのStockholm school of economics(日本ではストックホルム商科大学と呼ばれることが多いようです)へ短期の交換留学をすることになったからです。

その大学には、7月~12月の約半年、世界中のビジネススクールからの留学生とスウェーデンの学生が一緒に国際経営を学ぶ、Institute of international businessというプログラムがあり、そこに参加したのです。当時、アジアからの参加は慶応だけでした。

さて、そのプログラムには、授業以外にも様々イベントが学生によって用意されており、そのうちの一つが私も参加したソ連訪問ツアーでした。20~30人くらいの集団だったでしょうか。10月半ば、ストックホルムの港から客船でフィンランドのヘルシンキへ移動。そして、そこから列車でまずレニングラード(現サンクトペテルブルグ)へ。

夜遅く、ソ連との国境を超えた辺りで、大きなソ連兵が乗り込んできて、小さな駅にいったん降ろされました。多分パスポートチェックか車両交換などがあったのでしょう。駅構内で、初めてソ連の普通の人びとを見かけましたが、衝撃的でした。のそりのそりと薄暗い駅構内を歩く人びとの服装がぼろぼろで、まるで映画や芝居に出てくる帝政ロシア時代の農奴の姿そっくりだったからです。タイムスリップして100年前のロシアに移動したかと思うほどでした。

レニングラードに到着し、エルミタージュ美術館に連れていってもらいました。玄関には入場を待つ長い列ができていましたが、我々は反対の入り口から待たずに入れました。きっと外国人枠があったのでしょう、ちょっと申し訳ない感じ。玄関ホールでは、荷物を預かるおばさんがおり、元気にテキパキと作業していました。共産主義の国でも、こんな働きものがいるのだと妙に感心したことを覚えています。短時間だったこともあり、残念ながら、美術館の中のことはあまり覚えていません。

そして、モスクワに到着。モスクワでは、現地の女子学生がガイドとして我々学生をサポートしてくれました。街の裏通りには、ドルとルーブルを交換する闇屋がたくさんいました。正規交換レートの10倍くらいだったと記憶しています。でも、警察に見つかると逮捕されると彼女に注意されていたので、怖くて交換できませんでした。

この小旅行の最大のイベントは、モスクワのビジネス・スクール(らしきもの)の学生との交流です。共産主義国家なのでビジネス・スクールはあるはずもなく、今思えば共産党の幹部候補青年たち向け教育機関の学生たちだったのでしょう。ガイドの女性もそこの学生でした。

学校のような建物に入り、我々学生は、出身国ごとのグループに分けられ座りました。それぞれのグループに、ソ連の学生が付きます。そして、グループごとに対話が始まりました。面白いことに、グループごとにその国の言語がつかわれました。私の相手も、とても流暢な日本語で話します。外人っぽいアクセントがほとんどないので、「日本に住んでいたことがあるのか?」と質問すると、「行ったこともない」との返事。驚きました。そして、ちょっとだけ怖くなりました。こうしてKGBのスパイが養成されているのかと、想像してしまったからです。一方、どんな話をしたのかは覚えていません。後で、他の国からの学生に聞いてみましたが、やはり皆言葉の流暢さに驚いたとのこと。

ガイド学生の引率で、モスクワ市内観光も楽しみました。赤の広場のグム百貨店はモスクワ一の百貨店と聞いていましたが、ショーケースにあまりにモノがなく驚くばかり。また、モスクワで人気のおしゃれなアイスクリーム屋さんにも行きました、お店は普通でしたがトイレに入ってびっくり。トイレの中蓋(座る部分)が取り外されているのか、なかったのです。一見小奇麗なお店とのギャップが大きかった。レーニン廟にも入り、蝋人形のような遺体を拝みましたが、なぜこうまでして公開しているのか理解できませんでした。また、道端に机を並べ、そこでソ連軍の立派な制帽や制服などを売っている所を、何ヵ所かみかけました。

当時、ソ連はペレストロイカの真っ最中で、ゴルバチョフ書記長は日本や欧米でとても人気がありましたので、当然ソ連国内でもヒーローのような存在だと、私は勝手に思っていました。ゴルバチョフのおかげで、自由が得られつつあるのだから。ある時、ガイドの女子学生にそんな話をしてみると、意外なことに浮かぬ顔をしています。あまりはっきりは言わないものの、モスクワではあまり人気がないようでした。西側で報道されていた華やかで親しみのあるゴルバチョフ(ゴルビーとの愛称で呼ばれることも多かった)のイメージとは、大きなギャップを感じ不思議でした。

ストックホルムに戻ってしばらくした11月9日、ベルリンの壁が崩壊したことを知りました。ほんの数日前に、壁の向こうのソ連にいたのですから、とても不思議な感覚でした。ただ、それほど驚くようなことではなかったと記憶しています。ゴルバチョフによるペレストロイカが進んでいた首都モスクワの中心部でさえ、あれだけ物不足で荒んでいるのだから、他は推してしるべし。維持できるはずはないと感じたのでしょう。

帰国後の翌1990年3月にソ連は複数政党制に移行し、ゴルバチョフは大統領に就任。その年、一気にドイツ統一し、ノーベル平和賞受賞。しかし、1991年8月クーデター、そして12月のソ連崩壊へと続きます。

「ゴルバチョフ 人生と時代」(ウィルアム・トーブマン著)を11/9に読了し、モスクワの女子学生が言っていたことが、やっと理解できました。巨大なソ連という組織の変革に着手したゴルバチョフは、それゆえジレンマに苦しんでいたのです。改革に反対する保守派からは、当然の如く強い抵抗があり彼らを懐柔することも必要です。一方、当初ゴルバチョフを支持していた改革派も、そのスピード感のなさに徐々に見限られていきます。両者の狭間でバランスを取りながらの改革を目指していたゴルバチョフは、結果的に両者から疎んじられる結果となったのです。既存組織のリーダーが自ら変革を推進することは、想像以上に難しい。自分の行動が自分の首を絞めるのですから。

血を流すことを極端に嫌ったゴルバチョフは、狙い通り最終的に血を流さずに共産主義国家から民主主義国家に移行を進めたと言えます。ただ、現在のロシアは、ゴルバチョフが思い描いた姿とは大きくズレてしまった。現在88才の彼は、どんな想いなんでしょうか?

ベルリンの壁は1961年から1989年まで、28年間存在しました。そして崩壊から同じく28年後の2017年、アメリカにトランプ大統領が誕生。その前年には、イギリスが国民投票でEU離脱決定。1989年という年は、間違いなく歴史の折り返し点でしたが、また一巡して壁が存在する世界に戻りつつあるような気がしてなりません。

30年前にみたソ連の風景が、懐かしさだけでない感情を伴って思い出されます。

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