非暴力を学ぶ:上野千鶴子さんの講演を聴いて

昨晩、上野千鶴子さんの講演を聴いてきました。ジェンダーとケアがテーマでしたが、それにとどまらず様々な事を考えさせられました。

セクハラやパワハラなどの「ハラスメント」は、力関係が非対称な状況の下で起こります。つまり、強いものが弱いものを抑圧する。これらは、必ずしも権力によるものだけではありません。

あいちトリエンナーレの問題も、ある芸術作品を不快と感ずる人々が展示を止めさせるべく、メールや電話という手段を使って主催団体を攻撃したことが直接的な原因でした。

メールする側は本人を特定される可能性は低く(逮捕者はでましたが)、一方の受信側は個人を特定されます。明らかに力関係は非対称です。

また、「お客様は神様です」が暗黙の前提になっている日本においては、力関係がお客の側に傾いていることが普通でしょう。これは権力ではありませんが、抑圧ではあります。

強い側は暴力をふるっている意識はないでしょうが、力関係を利用した言葉による暴力に違いはない。

しかし、これは誰もが暴力を振るう側になる可能性があること示しています。社会とはそもそも非対称な関係性で成り立っているのですから。

だから昔から日本では、親は子に「弱いものいじめをしてはいけない」と言い続けてきたのだと思います。

私たちは力関係で強い立場にいるということは、それだけでもう暴力(身体的だけでなく)を振るうリスクが高いことを自覚しなければなりません。そして、非対称な力関係の下で、権力の乱用(=暴力)を抑えることを学ぶ必要があるのです。

講演の最後、会場からある女性が質問しました。

「私は66才で、1年半前に高校教師を定年退職しました。これから上野先生がおっしゃるような非暴力を学んでいこうと思います。しかし、多くの人たちはそれを学ぶ手立てを持てないのではないかと思います。どうしたらいいでしょうか?」

それに対する上野さんの回答が面白かった。

「とてもいい質問をありがとう。あなたは教師だったので、権力をかさに子どもたちに暴力を振るってきたのでしょう。肉体的な暴力は振るわなかったかもしれませんが・・。自分のことは分からないものです。あなただったら、子どもたちから学べばいいのです」

上野さんはバッサリ、質問者が権力者であり暴力を振るってきたことを自覚させました。その上で、弱いもの、ここでは子どもから学ぶことを促しています。具体的に、どのように子供から学ぶかまでは言いませんでしたが、私は目の前にいる弱いものに身になって感じ考えられる想像力を持つことを、上野さんは促しているのだと感じました。

弱者が強くなれる社会ではなく、弱者が弱者のままでいられる社会、すなわち相互依存できる社会をつくらなければならないと、上野さんは強調していました。すべての人間はいずれ齢を取り、弱者、依存者になっていくのだから。

今の日本では、成長しなければダメ、強くなければダメ、自己責任だ、ということが何となく正しいことのような風潮になっています。これは強者の論理であり、暴力の論理です。しかし世界は、グレタ・トゥーンベリさんに代表されるように、この方向では限界だと気付きつつあります。パラダイムは変わりつつあるのです。

私人と公民:香港のデモから考える

人間は、私人であり公民でもあります。どちらかを選ぶわけにはいきません。結局はバランスが大事です。当たり前ですね。ところが、そのバランスに絶対基準があるわけもなく、境界はその時代や属する組織、国、そして個人の経験や価値観によって揺れ動くもの。ただ、大きな方向性のようなものはありそうです。

最近の、香港における学生らの運動とそれに対峙する香港政庁、そして背後の中国の関係を見ると、つくづくバランスを取ることの難しさを感じます。

私人には二つの側面があります。

 A)私的な欲望と欲求(安全、生存、生存競争、自己保身・・)

 B)人間としての人格(道徳、尊厳、価値観、教養、コミュニケーション・・)

公民にも二つの側面があります。

 C)市民としての公共性(主体性、権利、文化、社会的人格、礼節、正義、コミュニケーション・・)

D)国家・民族への帰属(福祉、安全、義務、規制、遵法、公的立場・・)

5年前に「雨傘運動」は、明らかにC)の市民としての公共性を求める運動だったと思います。香港行政長官選挙の改正が発端でした。市民としての権利をD)守りたい市民と国家(香港政庁と中国共産党)との軋轢でした。

当初は一般市民も学生らを支援していましたが、やがて長引くデモや道路封鎖によって一般住民の経済的損害が多くなりA)、彼らの支持が離れていき、結果としてD)国家が勝利したと言えます。

雨傘運動では、市民としての活動であったため、一応組織だった活動でした。組織が存在するということは、組織分裂の可能性も必然的に存在し、そこを国家に付け込まれてしまい、それが市民の支持を失うきっかけにもなったと想像します。

香港警察は8月30日朝、2014年に香港で民主的な選挙制度を求めた大規模デモ「雨傘運動」の元学生リーダーの黄之鋒氏(22)と元幹部の周庭氏(22)を拘束した。 (毎日新聞より)

ところが、今回の逃亡犯条例に端を発した運動は、市民としての権利C)というよりも、香港の人々の私的な欲求A)、つまり生存権を侵害されるのではという恐怖に基づく運動に見えます。香港市民が何らかの理由で逮捕されて、中国に移送されて中国で裁かれる。理由など何とでもなると考えるほとんどの人々は、自分の生存も脅かされるかもしれないと考えても不思議ではありません。従って、今回は自然発生的な運動であり、リードする組織を持ちません。(それを可能にしたのはSNSです)

私人が自らの長期的な生存欲求を守りA)、また自分の尊厳や価値観を追求することB)を目的としています。一部のデモをする学生は、自分の卒業や就職にダメージを与えることA)を覚悟で、結果として未来の市民の権利C)のために戦っている。

一般市民もそれを理解しているが故に、短期的には多少経済的損失A)があろうとも、学生らを支持し続けているのだと思います。

一方の国家の側は、雨傘運動時と同じスタンスで抑え込もうとしています。大衆に対して、「市民としての安定を守る」、「それを妨げるものには力で制す」というスタンスです。公民にはそのメッセージが届いたでしょうが、今や相手は公民よりも私人の側面が強く出ている人びとなのです。

いよいよ、警察が学生に実弾を発泡する事件にまで至りました。それは、たとえどんな理由があろうとも、香港の人びとにとっては、私人の生存権や尊厳への挑戦と映るでしょう。

1日、香港でデモ参加者(左)に向けて発砲したとされる警察官の映像(香港大学生会Campus TVのフェイスブックから・共同

中国共産党は、天安門事件以降はD)を前面に押し出すとともに、カネという私的な欲望を満たさせることA)で、私人と公民のバランスを取り、一応の成功を収めてきました。しかし、香港はあの頃の中国とは異なります。金銭的な私欲A)はある程度満たされており、また市民としての権利C)も体験している(イギリスの統治下ではありましたが)。

公民と私人のバランスがリアルに試されているのが今の香港、そして中国共産党だと思います。

「あいちトリエンナーレ2019」を観て

9/24、大阪出張の帰りに名古屋で途中下車し、「あいちトリエンナーレ」を観てきました。時間がそれほどなかったので、メイン会場である愛知芸術文化センターだけでしたが。

平日の午後だったせいか、会場全体は閑散としており、その分じっくり作品に触れることができました。印象としては全展示作品の内2割程度は、「表現の不自由展・その後」の展示中止に抗議した作家の意志により、観ることができませんでした。

しかし、閉ざされた入り口には、作家による展示中止の理由を書いた文章が、丁寧に掲示されていました。また、展示中止にも関わらずスタッフついていました。

手書きのポストイットは、「身の回りにある差別」というテーマについて、観客が書いて貼ったもの。

あまり他の客がいないこともあり、私はそこに座っているスタッフにできるだけ話しかけるようにしました。ほとんどのスタッフは、展示中止になったことを詫び、残念がっていました。また、積極的に作家の意志表明文を読むこと促してくれました。中には、こっそり閉ざされたドアをほんの10cmくらい開けて、本来の展示はこうだったと説明してくれるスタッフもいました。皆さん、本当にいろいろ言いたいことはあるのでしょうが、じっと堪えているように見えました。

素晴らしい作品もたくさん展示されていましたが、このようなスタッフとコミュニケーションを、わずかとはいえ取れたことが、私にとっては最も心を動かされる「アート作品」だったと言えます。アートとは、既存の思考や感覚の枠組みに揺らぎを与え、それまでとは(少しであっても)異なる自分自身に変身させてくれるものだと思っています。そういう意味では、今回の「あいちトリエンナーレ2019」は、存在そのものがアート作品になった(なってしまった)のではないでしょうか?

「表現の自由」について、ここまで日本社会で議論になったことは、近年なかったでしょう。どういった理由であろうとも、社会で建設的な議論を巻き起こすことはとても大切なことです。そのためには、象徴的なもの、あるいは「出来事」の存在が必要です。

「表現の不自由展・その後」で展示されるはずだった作品群がまさに、その「象徴的なもの」だったのでしょうし、結果的に起きてしまった今回の騒動が「出来事」だった。一昨日、10/6遅くとも10/8には「表現の不自由展・その後」の展示再会を目指すことが報じられました。見たくないものも正面から見据えて、そして多様な意見が建設的に交換できる社会になればいいなと思います。

最後にひとつ作品を紹介します。加藤翼の「2679」という映像作品。

(解説文)ロープで互いに 拘束された状態で演奏する3名の和楽器奏者の様子が記録されています。各 演奏者はそれぞれ、英国と日本、ニュージーランドと日本、朝鮮と日本というルーツを持っていて、実際に多様なルーツを持つ人々が暮らしている日本の状況が想起されます。拘束された状態での演奏は、SNSなどのテクノロジーによって相互監視状態が生まれ、むしろ自己規制が自動的に促進されている今日的な社会状況のようにも見えます。 (https://aichitriennale.jp/artwork/A34b.html