洋画家中川一政は、大好きな画家のひとりです。彼が世に出た最初は、歌人としてでした。だから、彼の随筆はとても深く面白いのです。また、書も大変味わい深く、見ていて飽きません。
真鶴に中川一政美術館があります。真鶴という土地も、美術館もとても素晴らしく、何度も訪れました。最初に訪れたとき、見つけたのが、「われはでくなり」の絵です。
「でく」とは木偶であり、人形のことです。その絵に書かれている文字も、なぜか気に入りました。
「われはでくなり。つかはれて踊るなり」
最初は、中川のように強い意志をもって、絵を描き続けてきた画家が、木偶とか使われるとか、受け身の言葉を書くことに、違和感を覚えたのです。
ところが、最近私もこの言葉が好きになってきました。
「主体的意思を持って、判断し行動するのが立派な人間である。他人に使われるのではなく、使わなければならない。そのために、長期的ゴールを設定し、現状の自分とのギャップを埋めるべく、日夜努力すべきだ」
というパラダイムに、これまで無意識に縛られていたように感じます。しかし、そういうふうに考えことは、傲慢なことではないかと思うようになってきました。
「所詮、小さな人間が考えることなんて知れている。自分が、自分が、と思っても、より大きな世界から見れば、当たり前のことが行われ、当たり前の結果が起こっているに過ぎない。謙虚に、天に遣われるがごとく、自分の役割を粛々と演じ、踊り続ければいい。」
そんな、ことを中川は言いたかったのでは、と思うようになったのです。
先日、神保町の古本屋で、中川の画集を手に入れました。それに、一枚銅版画が附録としてついていたのですが、それが「われはでくなり」の版画だったのです。
今も背後から、木偶の目が「お前も木偶だ」と言いながら、私を見続けています。
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