ブックレビュー: 2016年3月アーカイブ

戦略系コンサルティング会社に入社した時、コンサルティングの価値について先輩に質問したことがあります。なぜクライアントは我々コンサルタントに、高いお金を払ってくれるのか、と。いくつか答えてもらったと思いますが、今でも残っているのは、「第三者性」の価値です。

 

いわく、「クライアント社内の問題について、内部にいる社員には内部ゆえに見えないことがある。コンサルタントは、内部にいないからこそ見えるものがあり、解決策も見つけられるのだ。」

 

正直、当初はピンときませんでした。コンサルタントは思考力や分析スキルが優れているからお金がもらえると思っていたのに、そういったもの以上に「外部者」という立場ゆえにお金がもらえるように聞こえてしまったからです。

 

それから四半世紀が経った今、その時先輩が言った意味が非常によくわかります。いろいろな形でクライアントの社内に足を踏み入れましたが、現場は千差万別。組織文化も社員のレベルも、ものの観方もそれぞれ全く異なります。でもずっと内部にいる社員自身は、何がどう違うのかよく理解できません。私は、毎回とても興味深く観察させていただいています。こういう多様な組織の現場をたくさん肌で知るからこそ問題が見え、解決策も見えてくるのです。

 

「サイロ・エフェクト」を読んだら、それは文化人類学者の視点と同じだと腑に落ちました。未開の社会などを観察する文化人類学のフィールドが、企業組織・社会になっただけなんです。著書のジリアン・テットは、文化人類学者を経てフィナンシャル・タイムズ紙の記者になった方です。文化人類学者の視点で、高度専門化した現代の企業組織や社会を描写しているのです。

 

終章で人類学の6つの方法論をまとめています。コンサルタントにも非常に有効な視点だと思いますので、要約します。

 

1)現場で生活を経験することを通じて、ミクロレベルのパターンを理解し、マクロ的全体像をつかもうとする。

2)オープンマインドで物事を見聞きし、社会集団やシステムの様々な構成要素がどのように相互に結び付いているかを見ようとする。

3)その社会でタブーとされている、あるいは退屈だと思われているために語られない部分に光を当てる。社会的沈黙に関心を持つ。

4)人々が自らの生活について語る事柄に熱心に耳を傾け、それと現実の行動を比較する。建前と現実のギャップが大好きだ。

5)異なるもの(社会、文化、システムなど)を比較する。比較することで異なる社会集団の基礎パターンの違いが浮かび上がる。別の世界に身を投じてみると他者について学べ、かつ自ら自身を見直すことができる。こうして、インサイダー兼アウトサイダーになる。

6)人類学は人間の正しい生き方は一つではないという立場を取る。我々が世界を整理するために使っている分類システムは、必然的なものではないことをよくわかっている。世界を整理するために使っている公式・非公式なルールを変えることもできる。

 

 

こうしてみると、戦略コンサルタントも人材・組織開発コンサルタントもクライアント企業という社会に、人類学者の視点を持って関わっていると言えそうです。特に、(現在メインとしている)人材・組織開発コンサルタントの立場は、大勢の社員を研修という場で観察することができます。まさに、人類学者の視点を大いに発揮することができる、非常に貴重な機会に常時接することができるのです。

 

インサイダー兼アウトサイダーとして、こういった場を通じてクライアント企業の組織の現状が手に取るように見える、これは大変な財産だと思います。

サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠
ジリアン テット 土方 奈美
4163903895

最近というか10年くらい前から、電車の中で新聞(紙の)を読んでいる人はほとんどいなくなりました。私はまだ読むので、社内で新聞を読んでいる人が隣や前にいると、思わず同好の士だと親近感を持ちます。

 

他の乗客はほとんどスマホをいじっています。ゲームかSNSですね。通勤時間に何に時間を費やすかは、結構大事な判断だと思います。SNSでは、主に友人の投稿を読んでいるわけで、それがそんなに面白いのかと私は思ってしまいます。それよりも、プロの新聞記者が書いた記事の方が質も高く、有益に決まっています。にもかかわらず、SNSに多くの時間を費やす人の方が今や「ふつう」なので、友人の寄稿がそれだけ面白いと判断せざるをえません。なぜだ??

 

これは、私にとって謎でした。

そこに、一つの回答を得ることができました。佐渡島庸平著「ぼくらの仮説が世界をつくる」にこうあり、なるほどーと納得!

 

一方、SNSでつながっているのは、知り合いや興味のある人たちです。親近感のある人たちとも言えます。身近な人が発信するから、ぜんぜん知らないプロの文章よりも「面白い」と感じるのです。

 面白さというのは、<親近感X質の絶対値>の「面積」だったのです。

 

「親近感」という要素が加わることで、多くの謎が解けます。「おふくろの味が一番」なのは、質ではなく親近感ゆえだそうです。

 

私はこれまで、質と親近感が同じレベルで比較されるとは思いもよりませんでしたが、言われてみればそうかもしれません。

 

親近感をもう少し掘り下げてみたいと思います。なぜ、人は親近感があると面白く感じるのか。

 

親近感とは、対象と自分に共通項があることです。友人とは多くの経験を共有しているでしょう。知らない人でも高校が同じというだけで親近感を持つのは、何かを(何かわかりませんが)共有しているはずだと感じるからでしょう。それを媒介にして「つながっている」はずだと思える。

 

つながっている対象と共通項があるということは、相手(対象)の断片的な発言から、それを起点として様々な想像をふくらませることができます。そこに書かれた文字情報以外の既知の情報と結びつけることで、全く未知の人の発言の何倍もの情報(思い込みも含め)を獲得できる。だから想像の余地が膨らみ、共感を得やすくなります。

 

人間は、本能的に「共感」を好ましいもの、つまり「面白い」と認識するのでしょう。また、想像を膨らませること自体を「面白い」と認識するのではないでしょうか。また「面白い」ものを想像して作っていくとも言えるかも。

 

これらは供給者である企業に、どのような示唆を与えるでしょうか。

 

あらゆる業界で、質の絶対値で差を大きくつけることが難しくなっています。だから、親近感に勝負の土俵が移りつつある。親近感とは共通項を持つことであり、それは想像を刺激する体験を共有し共感すること。User experienceにこだわったAppleは、最も親近感の醸成に長けた企業と言えます。Apple toreに入った瞬間から親近感醸成プロセスは始まります。User experienceとは、Apple(製品もサービスも)とユーザーの相互作用に他なりません。

 

何らかの「場」を共有し、そこで顧客と共働でなにかをつくりあげていくような「体験」をもたらすサービスは「親近感」重視のビジネスといえます。それがネット上である場合もありますが、リアルな世界の方がよりパワフルです。ただし、規模は稼ぐのは困難。

 

親近感を醸成する仕組みの設計、これからの重要なテーマです。


追記:この佐渡島氏の著書は、おっ!と思わせる新鮮な着眼がたくさん書かれており刺激的です。情報収集→仮説構築ではなく、仮説構築→情報収集という記載も、我が意を得たりでした。

ぼくらの仮説が世界をつくる
佐渡島 庸平
447802832X

集団の統合原理

| | コメント(0) | トラックバック(0)

昨日、マンションの管理組合を例に、コミュニティーの難しさについて書きました。そもそも私の問題意識は、ある集団の中でそれぞれが大事にしている様々な価値を、他者とどう認め合い、必然的に生まれる対立に折り合いをつけて統合した組織や社会、コミュニティーにしてゆけばいいのか、にあります。

 

営利目的の企業体であれば、経済的価値だけで押し通せそうですが、私たちが属するのはそうではない集団(マンションの住民から、日本国民、人類レベルまで)のほうが圧倒的に多いはずです。

 

集団を結びつける統合の原理は3つあるとポランニーは指摘しています。それぞれの集団のパターンに従って相互に扶助する「互酬」、集団の中で貨幣や財を一手に集めたうえで、それを法や慣習、権力者の決定によって構成員に配分する「再分配」、市場のもとでの可逆的な個人間・集団間での財・サービスの移動である「交換」、これら三つの統合形態を組み合わせながら社会を形成しているのです。

 

イメージするかつての日本社会は、そのバランスが取れていたのでしょう。交換を原理としている「会社」ではたらきながら、家に帰れば地域コミュニティーの一員としての役割(道路の草刈り、消防団、お祭りでの役務など)を果たす。また、古くから「無尽」と呼ばれる金融面での相互扶助の仕組みがあり、実質的には「再分配」の役割を果たしていたそうです。また、村の篤志家が貧しいが賢い子どもを援助して、学校に通わせたという話もたくさんありました。これも再分配です。

 

こういったバランスのいい統合ができていたのは、個人間の信頼がベースにあったからです。そして、信頼の源泉は、お互い顔を知っており、しかも長期的に離れがたい状況にあることでしょう。長期持続的関係になるので、個人の利害と集団の利害は一致する余地が大きい。地域の環境がよければ、そこに住み続ける自分にとっても嬉しい。

 

考えてみれば、「交換」を基盤にした「会社」も、かつては社会の相似形だったともいえそうです。自分の仕事だけをやればいいのではなく、困っている社員がいれば、できる社員が面倒をみるのは当たり前でした。そこには、自分に何かあれば助けてもらえるという「お互いさま」の精神があります。

 

また、日本企業の賃金カーブは、右肩上がりの角度が他国に比べ急と言われます。つまり、若いうちは生産価値より少なめの給料をもらい、年を取るにつれて生産価値を超えた給料をもらうようになるということです。

 

一見不公平な仕組みのようですが、「生活給」という概念で捉えれば理に適っています。家庭を持ち子供が大きくなるに従って生活費は増えます。それに合わせて給料も増やしていく。「能力給」とはまったく異なるのです。これは、相対的若手から高齢者への「再分配」です。(年金や健康保険も基本的には同じ構造です。)これが成り立つのは、長期持続的関係、すなわち終身雇用的な考え方に社員も経営者も価値をおいている場合です。かつては、能力給より生活給のほうが納得感が大きかった。

 

つまり、日本企業は、一見「交換」原理だけで成り立っている組織を、コミュニティーと同じように三つの統合原理のバランスを重視してきた。社会の相似形ともいえる組織をつくってきたのです。

 

しかし、状況は大きく変わりつつあります。会社は社会やコミュニティーではなく、労働力と賃金を交換する場のよう。さらに、本来は三原理で統合されるべき地域コミュニティーも、「交換」が幅を利かせるようになっています。(お金を払うことで消防団入りを拒否できる等)

 

マンションの住民は、そもそもコミュニティーとの意識すら抱いていないかもしれません(賃借住民が混じっていることもそれを促している)。資産価値の維持向上という交換価値のみで統合しているように見えなくもありません。

 

企業も含め社会が「交換」偏重になっていくなかで、それの歯止めになるのは「公共精神」であり、それを仕組みとして実現させるのは政治のはず。そもそも、すべての基盤にあるべきなのは相互の「信頼」。しかし、それを政治が壊しているのが、現実に起きていることなのかもしれません。

 

以下は、「経済時代の終焉」からの引用です。たまたま、マンション管理組合総会と本書を読んでいる時期が重なり刺激を受けました。

 

経済のゆたかさを「目的」から「結果」へと置き換える、そういう発想の転換が必要だ。経済は経済的な現象だけで成り立っているのではない。経済のゆたかさは、私たちが生きるに値する「善い社会」を構築する過程で派生してくる、ひとつの結果なのである。



経済の時代の終焉 (シリーズ 現代経済の展望)
井手 英策
4000287311

このアーカイブについて

このページには、2016年3月以降に書かれたブログ記事のうちブックレビューカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはブックレビュー: 2016年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1