ヒトの能力: 2018年11月アーカイブ

時間の感覚

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今月初め、能の発表会に出演しました。(その稽古段階のことは、前々回書きました。)なんとか仕舞を舞い終えたのですが、舞台上で舞っている最中、すごく地謡が遅く感じました。

 

説明しておきますと、仕舞は能舞台で一人で舞うわけですが、後ろに地謡、すなわち伴奏ともなるコーラス隊のようなものでしょうか、がプロの能楽師が4人座り、その謡に合わせて舞うわけです。

 

舞手は謡に合わせる必要がありますが、そこは素人とプロ、地謡がある程度舞手に合わせてくれます。地謡4人のうちリーダーとも言える地頭は、普段稽古していただいている観世喜正先生なので、稽古と基本的には同じ条件になります。

 

それにも関わらず、本番では地謡のスピードが普段の稽古の時よりも、すごく遅く感じたのです。この詞章の部分ではこの動き、というようにある程度セットで体に浸みこませているので、舞台上で「あれ、まだこの詞章??」とずれをやはり感じてしまいました。だから、稽古の時よりも動きが先に行ってしまうため、長めに停まって待つようなことが起きてしまいます。幸い、以前のようにそれが理由で頭が真っ白!という惨事には至りませんでしたが、違和感はぬぐいきれません。

 

私と同じように感じる稽古仲間もいたので、思い切って終演後の懇親会の時、先生に質問してしまいました。

「本番では地謡がいつもより遅いように感じるのですが、なぜなんでしょうか?」


先生は、こうおっしゃいました。

「普段の稽古と違って、本番では4人で地謡を務めるので、どうしても普段と同じにはならないのかもしれませんね。」

 今思えば、先生も随分気を使ってお答え下さったのでしょう。

 

その後、舞台を撮影したDVDが手元に届きました(もちろん有料です)。恐る恐るそれを観たときの第一印象は、なんて自分は速く動いているのだろう、でした。焦ってこんなに速く動いているので、相対的に普段と同じスピードの地謡でも遅く感じたのだろうと、納得しました。

 

本番の時にはそれほど自分が速いとは感じませんでしたが、DVDで観ると明らかに速く感じます。

 

その後、念のため演技時間を測ってみると、230秒でした。

 

あれ、あれ?? これって、稽古の時先生が模範で舞ってくれたとき(iPhoneでの撮影を許されます)の時間と全く同じだ・・・。

 

なんと、時間は多分稽古の時と本番では、違っていなかったのです。本番の映像をみると、イメージの中での私の稽古時や本番の時よりも速い。

 

・稽古の時に自分が感じたスピード

・本番の時に自分が感じたスピード

・本番の映像を観たときに感じるスピード

 

絶対的なスピードは、どれも230秒で変わらない。

にも関わらず、これら3つのスピードはどれも違っているように感じる。

 

先生の仕舞を動画でみると、絶対的な時間は同じでも、随分とゆったり動いているように感じます。時間の流れがゆったりしているのです。

 

脳が感じる「時間」というものは、主観的に自分がつくりあげたものなんですね。だから、先生の素晴らしい動きは長く感じ、私の稚拙な動きは速く感じる。速く目を逸らしたいからなのかもしれません。また、動いている自分自身が感じる時間の流れと、それを動画で恐る恐る観ている自分の時間の流れも異なる。

 

凍結した下り坂で車を運転していて、ロックして道から落ちそうになったことがあります。危うく落ちずに済みましたが、その時の光景はいまでもまじまじと覚えています。スローモーションのようでした。

 

これも人間の感じる時間は、主観的であいまいなものという例でしょう。

 

まだ、時計が普及していない時代、人びとはこういった主観的な時間の流れの中で生活していたはず。きっと、今とは全く異なる世界が広がっていたことでしょう。いったい、どんな感じだったのでしょう?

 

「問い」を発する能力

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企業研修の講師にとって、最も重要な能力は何だと思いますか?

私は「問い」を発する能力だと思っています。

 

一昔前であれば、講師は先生であり、受講者が知るべき知識を与える者という位置づけだったかもしれません。でも、今はそういう知識はいくらでも一人で学ぶことができます。eLでも本でも動画でも。一人では獲得が難しいからこそ、わざわざ忙しい中皆が集まって行うのが、集合研修なのです。

 

では、一人では難しいこととは何でしょうか?それは「思考」すなわち「考えること」と「自分を客観視」することだと思います。

 

一人でも考えているという方もいるでしょうが、哲学者でもなければ、深い思考を一人で巡らせるのはなかなか困難です。人は基本的には怠惰な動物なので、一人だとどこかで安易に妥協してしまうからです。私もよくあります。考えて続けるものの、「まあ、いっか」で終わり。

 

相手(他者)がいると、そうもいきません。相手から発せられた問いに対しては、考えて答えなければならない。だから、深く考えるきっかけになる。

 

この問いを発するのが講師であり、講師は問いによって受講者の思考を適切に起動させるのです。だから、最も重要な能力なのです。

 

ただ、この「適切に」が難しい。何でもかんでも、「なぜ?」、「So what?」を繰り返せばいいのではありません。

 

問いによって、講師が意図する方向に、受講者の思考を起動させる必要があるのであり、そこにはストーリーが必要です。あるストーリーを想定した上で、その流れに導くような問いが良い問いです。但し、誘導ではだめです。受講者が自らの意思で、その流れに沿って思考を進めていると感じさせなければなりません。水飲み場に連れてこられたのではなく、点々と落ちている餌を少しずつ食べながら歩んでいたら、そこに水飲み場があった。だから飲もう。というイメージです。「水を飲む」とは「気づき」を得ることの比喩です。

 

こういう問いを、臨機応変に発するのは非常に難しい。しかし、問いにはいくつかのパターンがあることに最近気づきました。ある研修を後ろでオズザーブしているときに、書き出したのが以下です。

 

・具体的な事例を挙げさせる

・理由を考えさせる

・ある事象が起きたときに、それに付随して起こる「結果」を推測させる

・(上と近いですが)ある現象が起きるメカニズムを類推させ、それに適用してアウトプットを求めさせる

・自分なりの評価を、理由とともに説明させる

・多くの現象を抽象化することで、共通項を見つける

 

ある知識を前提として、それを活用して上記のような問いを発することで、受講者の思考を起動させる。そして、その結果自らの力でなんらかの気づきを得る。

 

こういったプロセスがとても大切なのです。講師とは、その口火を切る役目です。あまり良くないのは、講師と受講者が一対一の関係で、Q&Aを繰りかえすような状況です。他の受講者を巻き込むことが必要です。

 

講師が発した問いに受講者Aが思考し答える。その答えに対し、受講者が新たな問いを発する。それに対して、受講者Cが答える。受講者はそれぞれの見方を持っているので、それらを交差させる。こうした連鎖こそが、集団で集まって研修を実施することの価値なのだと思います。理想は最初の問いすら、受講者が発することです。

 

こうなると、講師の役割はどんどん薄れていき、勝手にクラスが回っていく。この場をうまくマネージするだけで、何も教えたりはしない。ときおり、問いを発するだけ。クラスから講師の存在が消えることが理想です。そうなったとしても、受講者は講師に満足し、感謝することでしょう。「今日はとても勉強になったし、何より楽しかった。ありがとうございます」、と。

 

以上、企業研修における講師の能力として述べましたが、これは一般企業のマネジャーにとっても同様に重要な能力です。人を育てる、あるいは人に動いてもらうとは、適切な問いを発することなのですから。

 

意識を消す

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仕舞の舞台に立つと、信じられないことが起こります。普段の稽古では失敗したことがないことを本番で失敗したり、途中で頭が真っ白になってしまうことさえあります。

 

一方で、うまくいった時は舞台を降りた後で、自分がどう動いたかをほとんど覚えていません。だから、本当にうまくいったのか確信がないのですが、仲間はそう言ってくれます。逆に、失敗したときには、その時の情景をくっきりと記憶しています。だからつらいのです。

 

こういった現象は私だけではなく、話しを聞く限り、他の人にもほぼ同じように起きるようです。

 

なぜ、こうなるのかずっと考え続けてきましたが、最近そのヒントらしきものに辿り着きました。それは、「意識」の働きによるという仮説です。

 

20世紀末から脳の研究は各段に進歩してきています。それによると、人は意識をしてから行動するのではなく、(無意識に)行動の選択がなされた数百ミリ秒後にそれを自覚(意識)して行動することが多くの実験により証明されています。つまり、意識を過大に重視すべきではない。

 

仕舞の稽古では意識を重視しています。伴奏ともいえる謡を聞き、詞章のこの部分であればこの動きだというように、言語と行動をセットで記憶するように稽古しています。そして、そのタイミングが少しでもずれると、動きを修正するように意識します。

 

失敗するときは往々にして、ずれを認識しそれに修正をかけようと意識するときです。その後に、頭が真っ白になってしまうことが多いように感じます。つまり、強い緊張のもとでは、意識が立ち上がると本来できる体のはたらきを覆い隠して、できなくしてしまう。意識とは、妨害電波のようなものではないでしょうか。だから、うまくいった時は意識が立ち上がっておらず、その結果記憶があまりない。意識とは邪念や煩悩の親戚のようなものかもしれません。

 

そこで、能舞台上にひとりで立ち、通して舞う稽古の時、出来るだけ意識を立上げないように努めてみました。普段、どうしても動きを忘れてしまうのが怖いので、ついつい次の動きを考え用意しようとしてしまいます。それをしないようにしました。それができるようにするために、地謡の謡(うたい)を聴くことだけに集中するのです。他のこと(次の動きとか)を一切考えないで、謡に体を全て晒すイメージです。そうすると、意識ではなく体が勝手に舞台という空間の中を動いていくような感覚で、仕舞を終えることができました。意識は最小限だったと思います。稽古では意識しても、本番では意識を消す。

 

 

話題の本「ホモ・デウス」にこういう記載がありました。米海軍は兵士の脳に電気的刺激を与えることで兵士の感覚をコントロールする実験を続けており、「ニューサイエンティスト」誌の女性記者がその取材を許されました。記者は、狙撃兵の訓練施設を訪れ、戦場シミュレーターに入ります。巨大なスクリーンに銃を持つ敵が次々と現れ攻撃してきます。それを打ち殺していく。

 

記者はこう振り返ります。

「なんとか、一人撃ち殺すたびに、新たに三人の襲撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった。」

 

次に脳へ電気信号を送る特殊なヘルメットをかぶり、同じことを繰り返す。すると、先ほどと打って変わって落ち着き払い、次々と敵を打ち殺すことができた。しかも時間を感じなかったという。記者はその体験をこう語ります。

「愕然としたのは、生まれて初めて、頭の中の何もかもが、ついに口をつぐんだことだった・・・自己不信と無縁の自分の脳というのは新発見だった。頭の中が突然、信じられないほど静まり返った・・・(中略)私の心には怒りと敵意に満ちた小鬼たちが住みついていて、私を怖がらせて、やりもしないうちから物事を諦めさせてきたけれど、やつらを別とすれば、私は何者だったのか?そして、あの声はみな、どこから聞こえてきていたのか?」

 

私が謡に身を任せて意識が立ちあがるのを防いだのと、記者が特殊なヘルメットをかぶったことは、脳の神経作用の上では同じようなことだったのかもしれません。スポーツの世界で語られる「フロー」も同様とも思えます。

 

米海軍の実験という事実に薄気味悪さを感じますが、私の仮説を裏書きするようなものであり、いささか心強くもあります。

 

理由が分かれば対応もできる。もうすぐ、舞台本番です。稽古で一度だけ体験できたことが、本番でも実現できるのか、怖くもあり楽しみでもあります。

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